ルカの福音書説教

小林和夫師
第47回

9章-8:熟慮、決断、前進

ルカ福音書9章57〜62節

今日からアドベントに入りました。4週間後にはクリスマスです。クリスマスを単なる恒例の祭りに終わらせないために、救い主を待ち望むアドベントが設けられています。この4週間をどのように生きるか、心を用いる事によって、クリスマスの祝福“神我らと共に在ます”という、喜びと慰めの密度が異なります。

本日の聖句は、イエス様と3人の人々の対話の形で進められています。主イエスと共に生きる道には厳しさがあり、従う者には決意が求められます。また、その道の前方に開かれる祝福についても考えさせてくれます。

「さて、彼らが道を進んで行くと」とあります。この「さて」は、むしろ「それから」と訳すのがよいでしょう。

51節では「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスはエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた」とあります。そこでは明らかに、イエス様が新しい局面を迎えたことを告げていますが、ここでは場面が連続しています。使われているギリシャ語の接続詞も違いますので、区別する方がよいと思います。

ルカは、さりげなく読者を引きこみ、臨場感に浸らせてくれます。ルカはこの時から、十字架が待つエルサレムに、ひた向きに進むイエス様に焦点を当てています。マルコの福音書は、この時の様子を「イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた」(マルコ10:32)と、記しています。

その日、弟子たちの間には異常な緊張感が漲っていたようです。今日の聖句に続いて、イエス様は70人の者をご自分の代わりに町々村々に派遣されます。ですから、本日の聖句は、主の証人となるために、主についてきた人々が試されているところでもあります。

I. ほとばしる熱情を牽制(打算か無知か)

そこへ、一人の人が飛びこんで来ました。彼はイエス様に近づき「私は、あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」と、健気な告白をしました。彼は、イエス様のどんなところに心を引かれたのでしょう。明らかにされていませんが、とにかく、この言葉には、ほとばしるような情熱が込められています。

しかし、イエス様の返答には愛想がありません。むしろ、冷やかな感があります。主は言われました「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と。出鼻を挫くような扱いです。

彼は“よくぞ、決心した”と、ほめられることを期待していたと思います。けれども、主イエスの言葉には歓迎の意思が見えません。むしろ“軽はずみなことはするな”と言う、冷めた拒絶のニュアンスが感じられます。

推測ですが、彼には思惑の違いがあったようです。彼は、多くの病人がイエス様によって癒された現場を見た事でしょう。また、五つのパンで5000人が養われたことも聞いたでしょう。或いは、あの時パンを食べた者の一人だったかもしれません。

彼の心には“イエス様を味方につければ、どこへ行っても医者いらず、食堂いらず・・・”などと、横着な打算が働いたのかも知れません。彼は「どこにでもついて行きます」と、大見得を切りましたが、肝腎な点を考慮しなかったようです。

そんな彼に、主は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と、応えました。主イエスは、主に従い・主と共に生きることが決して安易な道ではないことを明らかにされたのです。

イエス様は、エルサレムに向かって歩き始めた時、それに先だって「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして、わたしについて来なさい」と命じました。そして「弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚え」始めたのです。それでも、彼らは後戻りをしない人たちでした。

主に従いたいと願う者は、この点で無知であってはなりません。懐目当ての連中なら“金の切れ目が縁の切れ目”という事になりかねません。

主イエスに従う情熱にも、冷静な自己吟味が必要です。正しい認識を持たなければ、途中で挫折感を味わうことになります(ヨハネ6:66)

パウロは、ユダヤ人同胞の宗教的な情熱を「私は、彼らが神に対して熱心であることを証します。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません」(ローマ 10:1)と見抜いて、慨嘆しています。人は「主に従う」と言う時にも、自分の打算や思惑に従って行動する場合がなきにしもあらずです。自己吟味が問われるところです。

II. 逡巡する者に決断を促す

仏教の言葉に“人見て、法説け”という言葉が有ります“十人は十色”ですから、人の扱いはワンパターンではありません。イエス様も臨機応変です。別の人に出会うと「わたしについて来なさい」と、ご自分の方から呼びかけました。

すると、その人は「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と応え、ためらいを見せました。その時、主は聞きなれない言葉を発せられました「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」こう畳みかけて、速やかに決断するように彼を促しました。

イエス様は“葬式なんかほっといて、わたしについて来なさい”と、命じているのではありません。彼の心にある逡巡を見抜き、彼に決断を求めたのです「まず行って、私の父を葬ることを許してください」というのは、平たく言えば“いずれそうする心算ですが、未だ準備が整っていません。あれも、これもしなければなりません。私には老い先の短い父がいますので、今お従いすることはできません”という類の言い訳です。

ここには、主に従う事を充分に考え抜いている人がいます。しかし、彼は決断を躊躇しています。俗に言う“石橋を叩いて渡らない人”です。決断すべき事柄を前にしてためらい続け、踏み出すことの出来ない人に向かって、主は呼びかけます「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」

或る人には、現在の責任と義務、将来起こるかもしれない事への不安が足かせになります。私たちの間でもよく聞く言葉があります“育児が終わったら・・・、ローンがおわったら・・・、教育費が掛からなくなったら・・・、定年退職をしたら・・・”

今、行動することが求められているのに、決断を将来に先延ばしさせる理由はいくらでも思いつきます。狡猾なサタンは、私たちの内に潜む、困難に直面すると前進を躊躇う傾向を見破っています。そして、次々と遅らせる問題を投げかけてきます。

イエス様は「わたしについて来なさい」と呼びかけます。ヘブル書も「今日、み声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(ヘブル4:7)と促します。

時には、私たちの中に潜む完全主義が妨げになることもあります“中途半端ではイヤですから・・・”という言葉の背後には、己の面目があります“周囲のものからまったく自由になって、心ゆくまで、納得出来るようなかたちで・・・”と言う弁明は一応もっともですが、ここで後回しにされるのは神の国の福音宣教です。

パウロは、プライドは高いが実質を持たないコリント教会に、マケドニヤ諸教会の献身ぶりを示しました。即ち「私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私は証します。彼らは自ら進んで力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと熱心に私たちに願ったのです。そして私たちの期待以上に、神の御心に従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにも委ねてくれました」(IIコリント8:1-5)と書き送っています。

神の国の宣教は、いつの時代も、困難を抱えた人々によって広められてきました。私たちも現在のできない状況に目を奪われないで、今、何ができるかを考えたいものです。

III. 回顧は前進のため

別の人は「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」と願いました。すると、主は「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」と言って、彼を戒めました。

彼と前の二人には相違があります。彼は熟慮のすえに主に従うことを決断し、すでに歩み出している者のようです。その彼が、ある時ふと前途に不安を感じ、主に従う道の途中で立ち止まり“自分の選択・決断は正しかったのだろうか”と振り返り、修正を試みようとしているかのように見えます。

モーセに導かれて、エジプトの奴隷の境遇から解放されたイスラエルの民は、荒れ野の旅路で食物や水の困難に直面すると、実り豊かなエジプトの地を懐かしがりました「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」(民数記11:4-6)

ロトの妻については、ソドムとゴモラが滅亡する日、その町から命からがら逃れてきた筈なのに、焼き滅ぼされるべき快楽の町を懐かしんで「振り返ったので、塩の柱になってしまった」(創世記19:26)と、伝えられています。

神の国を追い求める者には、未練がましく振り返るのは相応しくありません。前進する姿にこそ、神の国とその義を追い求める者の姿があります。ルカは、エルサレムに眼差しを向けて「わたしは今日も明日も、次の日も進んで行かなければなりません」(13:33)と言われたイエス様の言葉を記しています。

故郷バビロンの地を離れてさすらい人になったアブラハムについて「彼は、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです・・・ もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし・・・さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした」(ヘブル11:13-16)

使徒パウロも「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13-14)と、心情を吐露しています。

私たちも、まとわりつく罪や足かせになる口実を断ち切って「今日も明日も、次の日も進み行く」主イエスと共に、歩みを進めたい。