ルカの福音書説教

小林和夫師
第43回

9章-4:イエス様の求人広告

ルカ福音書9章18〜25節

飯能キリスト聖園教会は、初夏にサラダ・パーティーを開催されます。長年続いている新緑の季節の一大イベント、毎回大好評を博しています。それだけに、準備をされる皆さんには、ご苦労が有ることを推測しています。

イエス様が夕暮れ間近に、弟子たちに命じて開催した野外パーティーは、予め計画を持たなかったハプニングでした。あれは、五千人を満腹させる大盛況でした。イエス様のなさることは実に臨機応変です。

あの時、イエス様を動かしたのは何でしたか。マルコの福音書が、その事情を伝えています「イエスは・・・多くの群衆をご覧になった。そして、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められ」(マルコ6:34)ました。その憐みの延長で、イエス様は食卓を用意されました。

「5つのパンと2匹の魚」を祝福して裂き、五千人の群衆を満腹させたのは「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)と言われた、イエス様に相応しい行為です。

野外の食卓は簡素でしたが、それに参加した群衆は、王の晩餐会に招かれた人々にも与れない感動を得たようです。青草の食卓は果てしなく広がっていました。あたかも、誰をも拒まない開かれた食卓を象徴するかのようです。

あのでき事は、私たちの罪の贖いのために十字架で御体を裂き血潮を流されたイエス様の聖餐の雛形です。今日、キリストの体と血にあずかる聖餐は、世界の隅々にまで及んでいます。そこには何の差別もありません。

I. ペテロのキリスト告白

(マタイ16:16-19)

この出来事で、イエス様の名声は一気に広まりました。巷では“イエスとは何者だ”という噂が飛び交い、民衆の好奇心が高まりました。彼らは、イエス様に期待の眼差しを向けるようになりました。ある者は「バプテスマのヨハネが生き返った」と言い、他の人は「預言者エリヤの再来だ」と、物知り顔に言います。

このような評判は、立ち消えになることもありますが、時には、坂道を下るブレーキの壊れた車のように暴走することもあります。

イスラエルの民衆は、イエス様を自分たちの都合で利用しようと暴走しかけましたが、主は「人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って」(ヨハネ6:15)彼らから離れました(この世の野心的な政治家や宗教者なら、このようなチャンスを決して逃さないものです)

この時、イエス様が関心を持たれたのは、ご自分に対する世間一般の評価ではありません。イエス様が選んだ弟子たちが、ご自分をどのように理解しているかが気がかりでした。そこで主は「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と、彼らに訊ねました。すると、シモン(後のペテロ)が、即座に「神のキリストです」と、応えました。

これについて、ユダヤ人のマタイは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と、丁寧に記録しています「生ける神」という表現は、旧約聖書に親しんでいるユダヤ人には、馴染み深いものです。旧約聖書の「生ける神」とは、しるしを伴う圧倒的な存在(申命記5:26)です。名ばかりの偶像とは異なる天地の創造者です(エレミヤ10:10-11)

旧約聖書の随所に、誓いの慣用句として「主は生きておられる」と、用いられています(多くの預言者たち、ギデオン、ダビデ、ソロモン、エリヤ、ミカ、特にエレミヤが多用する)

主イエスは、このシモンの告白を大そう喜ばれました。そして「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天に在すわたしの父です・・・あなたはペテロです。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」(マタイ16:17-18)と、満足されました。

さすがはシモンです。彼も暫く前までは「いったいこの方はどういう方なのだろう。風も水も、お命じになれば従うとは」(ルカ8:25)と、驚いていました。しかし、今や、イエス様が「生ける神」であることを確信したようです。

この時のシモンの情熱を、同僚のヨハネは、次のように書いています「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハネ6:68-69)平たく言えば“あなたから決して離れません”という告白です。

主イエスは、シモン・ペテロの告白を聞いて満足され、キリストの教会とは「あなたは、生ける神の御子キリストです」という信仰告白に立脚するものだと明言されました。

II. 主イエスの告知

(マタイ16:21-23)

こうして、イエス様の前進する準備は整ったように見えました。そこで主は、今後どのような道を進んで行くのかを具体的に語りました「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならない」こう言って、弟子たちに決意を求めました。

イエス様は、今まで秘めてきた事柄を明らかにしています。しかし、弟子たちには、この主の言葉が理解できなかったようです。

民衆の間には“イエス様を担ぎ出して自分たちの王にしよう”とする、不穏な動きがありました(ヨハネ6:15)その動きの是非はともかく、弟子たちもそれを耳にしていた筈です。

家も職業も捨ててイエス様に従ってきた彼らが“時節到来”或いは“我々の時代が来た”と考えたとしても、不思議ではありません。初期の困難に耐えて来た弟子たちが“ついに報われる時が来た”と考えても、自然の成り行きです。ですから、弟子たちは、イエス様の言葉の真意を計りかねたようです。

マタイの福音書は、ペテロの気持を伝えています「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こる筈はありません」今しがた誉められたばかりのペテロの言葉は、確信に満ちていて断定的です。

すると、イエス様は振り向いて、ペテロに「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、叱りつけました。先ほどペテロを誉めたイエス様が、今度はペテロをサタン呼ばわりしたのです。こんなに厳しい光景は外に見たことがありません。

イエス様を「神のキリスト」と告白したシモン・ペテロですが、この発見は、未だ彼の日常的な価値観や判断力に影響を与えるほどには成熟していません。ですから、ペテロは「神のキリスト」が、苦しみを受け、捨てられ、殺されるなどとはもっての他“あり得ない”いや“あってはならない”と、考えたのです。

これに対して、主イエスは「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、戒めました。弟子たちはまだ、神の子が人となられた真意をわきまえていません。

主イエスはこの時「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)と、言われました。

この日、イエス様が告知したキリストの道は、当時の弟子たちには厳し過ぎたとしても、避けて通ることのできない道です。

今日でも、病状の告知や原発情報の開示などは、時には不快に思われる事もありますが、結局は真実が最善です。パウロは「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある」(IIコリント13:8)と、書いています。

III. 主イエスの求人広告

ここでイエス様は、改めて弟子たちに「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」と、呼びかけました。

イエス様は、群衆に対しては「全て疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と、呼びかけました。

しかし、一緒に目的を果たすために選んだ弟子たちには「自分を捨て、十字架を負い、従って来る」決意を求めました(ルカはここで、トリプルΑを用いる。ギリシャ語動詞は、アルネオマイ、アイロー、アコルーオー)

イエス様の要請は、突然厳しいものになったわけではありません。主イエスは既に「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13-14)と語りました。生命に入る道には厳しさがあります。

世界の現実はいかがです。不正の利をむさぼり、不正の絆に繋がれて身を滅ぼす人々が後を断ちません。政治家や役人や実業家ばかりではありません。勤労者も同じ不正に加担させられる危険に身を置いています。

私たちの時代こそ、主イエスの呼びかけ「自分を捨て、日々十字架を負い、わたしに従ってきなさい」という言葉が、新鮮な響きをもっているのではありませんか。容易ならぬ言葉ですが、主の約束には「自分のいのちを救う」報酬が明記されています。

世間でも、真の目的を見いだした人々は、自ら苦難の道を選んで果敢に挑戦してきました。百年ほど前のことですが、南極大陸の縦走という無謀と思える計画をした英国人がいました。彼は、協力者を求めて求人広告を出しました“仕事は厳しく、報酬は少ないが、達成感がある”すると、30人の求人に対して、なんと5000人以上の人が応募してきました(彼らは、目的を果たすことはできなかったが、22カ月の漂流の後に、奇跡的に全員生還しています“エンデュアランス号の漂流”は、一読の価値がある)

自己否定、自己放棄、自己犠牲、苦難、服従、どの言葉も重たい響きを持ち、一般には不人気です。しかし、神のかたちに似せて造られた人間は、明快な目的さえ見いだせたらチャレンジをいといません。今日でも、地震・津波の被災地で、多くのボランティアが報酬のない仕事で泥まみれになっています。

ペテロは晩年「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」(Iペテロ1:4-9)と書いています。彼は主イエスに従って歩んできた自分の生涯の総括をしたのでしょう。