ルカの福音書説教

小林和夫師
第29回

2章-1:神の子はベツレヘムに

ルカ福音書2章1〜7節

クリスマスおめでとうございます。

本日の聖句は、私たちの救い主がユダヤのベツレヘムでお生まれになったことを物語っています。ガリラヤのナザレで暮らしていたヨセフとマリヤが、なぜ、ユダヤのベツレヘムで出産をしたのか、ルカはその経緯を説明しています。

それは「全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た」からです。その範囲はローマ帝国の属州をも含む大がかりなものでした。

どんなに規模が大きくても、私たちの国勢調査のように居ながらにして登録できるなら結構です。しかし「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った」とあります。これは、民族に大移動を求めるようなものです。

ナザレからベツレヘムまで約120KM、今日の交通手段を用いれば日帰りできる距離ですが、特別な手段を持たず、身重のマリヤを伴うヨセフには難儀な旅だったことでしょう。

この命令は、民衆の福祉や利益の為ではありません。ローマ帝国が、行政と徴税の利便の為に行なったものです。国家権力は横暴なもので、その命令は待ったなしです。ユダヤ人の中でも熱心党と呼ばれる過激な連中は、人口調査を拒否したそうです。それにしても、国内は、さぞかし混乱した事でしょう(年末年始の渋滞の比ではない)

人口調査は、毎年行なわれたわけではありません。スラの時代までは(前82年)5年毎に行なわれていましたが、その後は不定期になりました。紀元前7年と紀元後7年の記録が残っています(それが14年毎の論拠となる・・・)ドミチアヌス帝(後81-96年)以後は、廃止されました。人口調査の年に出産したのは、運が悪かったのでしょうか。それとも、神の絶妙な配剤だったのでしょうか。

I. 世界の混乱の中で

マリヤとヨセフは、追い立てられるようにして出身地ベツレヘムに向かいます。そこで「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と、記されています。

神の子が人となってこの世界へ来られたとき、世の中は、てんやわんやの状態でした。生れたばかりの嬰児を「布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったから」とは、まことに象徴的です。

周囲の者たちは誰も、イエス様に気づきません。自分のことで精一杯です。それでも、神の子は天を裂いて下り、地上に僅かな隙間を見つけて割り込んで来られました。

ヨハネの福音書は「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と記しています(ヨハネ1:10-12)

強制された旅先で、部屋の片隅も貸してもらえず、家畜小屋で初めての出産をしたマリヤが不憫ではございませんか。敬虔なポール・ゲルハルトは、崇高な思いを賛美に託し“黄金の揺り篭、錦の産着ぞ、君に相応しきを”(賛美歌107番)と、詠でいます。

これは、ローマ皇帝の権力に翻弄されたからではありません。インコグニトウス、神が意図した御忍びです。マリヤとヨセフをベツレヘムへの長旅に追いやった直接の理由は、皇帝アウグストの勅令ですが、その結果、旧約聖書の預言は見事に成就しました。

預言者ミカは、キリスト降誕の700年以上も前に、その誕生の地について預言しました「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(5:2)と。

歴史は神の演出なさる舞台だと言われますが、その通りです。横暴で非情な権力者さえも、結果的には、神の永遠の経綸に仕えているにすぎません。このように「神は万事を益とされ」ます。ですから、私たちが予期せぬ困難に直面した時も、心挫けたり失望落胆してはなりません。その時こそ、神がもっとも近づいてくださる時なのです。

今日も、自分の意思ではどうすることも出来ない不本意な事柄はいくらでもあります。望まぬ地に転勤命令が下り、単身赴任を余儀なくされる場合があります。志す進路が思い通りに開けないという事もありましょう。恐れることはありません。

人口調査の混乱の中で産まれた救い主は、父なる神の導きのもとにありました。この救い主は、今も私たちと共におられ、私たちの弱さを思いやることができます(ヘブル4:15)

II. 御子はベツレヘムに生まれる

神の御子が人となられた時、なぜベツレヘムの地が選ばれたのでしょうか。東方の博士たちが星を観測し、いち早く救い主の誕生を察知したとき、ユダヤを目指しました。彼らは、ユダヤならエルサレムだと考え、首都エルサレムを訪れています(マタイ2:1-6)

神の計画は「ベツレヘム・エフラテ」にありましたが、この町が特別な実績を持っていたわけではありません。預言者ミカは、ベツレヘム・エフラテを名指して「あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが」(ミカ5:2)と、指摘しています。それにも拘わらずベツレヘムなのです。なぜ、ベツレヘムなのでしょう。もしかすると「最も小さい」それだからこそベツレヘムなのかも知れません。

ベツレヘムの名が初めて聖書に出てくるのは死と墓の記録です。先祖ヤコブは回想の中で「わたしがパダンから帰って来る途中、ラケルはカナンの地で死に、わたしは悲しんだ。そこはエフラタに行くまでには、なお隔たりがあった。わたしはエフラタ、すなわちベツレヘムへ行く道のかたわらに彼女を葬った」(創世記48:7、35:19)と言います。

ヤコブは、叔父ラバンの家で長い年月に亘る厳しい年季奉公を強いられましたが、それも終わり、故郷を目指して帰国の途上にありました。彼がベツレヘムまで来た時、最愛の妻ラケルは、ベニヤミン出産の床で亡くなりました。ベツレヘムは、ヤコブとその民族イスラエルにとって拭いがたい悲しみの記憶です。

ベツレヘムの語意は「パンの家(ベイト・レヘム)」でもあります。この地が、ユダの穀倉地帯だったからでしょう。このベツレヘムで、ダビデの曾祖母であるルツは、落ち穂を拾って義母ナオミに仕えました。

しかし、穀倉地帯がいつでも豊かな実りをもたらせてくれるわけではありません。ルツ記の冒頭には「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった」(ルツ1:1-2)と記されています。

この一家が期待して赴いたモアブの地で、彼らが受けた苦難は、筆舌に尽くせません。ナオミはその地で夫と二人の息子を失い、誠実な嫁ルツに支えられてベツレヘムに戻ってきました。ナオミの帰国の挨拶は、悲しみに満ちたものです「私をナオミ(楽しみ)と呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました」(2:20-21)と嘆きます。

この家族に起こったのは暗示的なことです。豊かな地にも飢饉は起ります“外にもっと良い地があるかも”と期待して、その地を飛び出して見るが、もっと酷い目に会います。そして、結局、帰ってくるのはベツレヘムです。

ベツレヘムは、ダビデ王が幼少期を過ごした町でもあります。彼はペリシテと交戦中に、無性にベツレヘムの井戸の水を慕いました(IIサムエル23:15)懐かしいもの、奪われたものへの思慕でしょう。

ベツレヘムが語るもう一つの意味は、奇妙な事に「争いの家」です。ヘブル語の「パン」と「争い」は、同じ子音(レヘム)から派生しています。ここにも「ことば」と「荒れ野」、「栄光」と「重荷」などに見られる、イスラエル独特の言葉の変遷があるようです。

人はパンを求めて生活します。パンが欠乏すると争いも辞しません。奪い合いが生じます。貧乏は敵だと言われますが、それでは、パンが満ち足りている時は平和でしょうか。豊かなパンが、争いを激しくするケースもあります(遺産や宝くじの分配で争う)日本も、物質的には世界のトップレベルですが、現状を誇れるでしょうか。

パンが十分あっても、必ずしも平和を産みだせません。物質的な繁栄は、極めて重要なことですが、必要十分ではありません。今日の世界を見れば、いやしがたいほど人の心が渇き衰えていることは明らかです。

ベツレヘムは、心の故郷のように慕わしく懐かしい町を代表しています。しかし、一歩踏み込んでみると、過酷な現実が待ち構えている、そのような場所です。

イエス様がベツレヘムで生まれた理由は明らかではありませんが、ベツレヘムとは、我々の世界の至る所にある町の姿だと言えないでしょうか。

イエス様は「パンの家」と呼ばれるベツレヘムで呱々の声をあげました。しかし、最低の状況、貧しさの極みにおかれています。神の子は、パンに満ち足りてはいるが、争いの果てないベツレヘムに、無一物で来られました。このベツレヘムの貧しさは、この世界の心の貧しさを代表していませんか。

父なる神は、御子イエスをこの世に下さるとき、世界中を捜して、かよわい乙女マリヤの胎と、隙間風や悪臭が漂う家畜小屋しか見いだすことができませんでした。しかしこの事実は、イエス様が“開かれた所ならどこでも、家畜小屋にでも宿って下さる”証です。神はベツレヘムの家畜小屋を、光と喜び・平安と希望の出発点にして下さいました。

パウロは、万感を込めてコリント教会に書いています「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(IIコリント8:9)と。

物理学に、位置のエネルギーという用語があります。高い所にある物は大きなエネルギーを持ち、この性質を物理学的に利用したのが水力発電です。落差が大きければ大きいほど、大きなエネルギーを生じます。

天と地、神と人との落差は無限です。ですから「神が人となる」とき放出されるエネルギーは無限です。そこで放出された愛と恵みによって、私たちは生かされています。

神学用語に“クール・デウス・ホモ(神はなぜ人となられたか)”という言葉があります。答えは明快です「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:16)です。

わがたましいよ、主をほめよ。栄光主にあれ。