ルカの福音書説教

小林和夫師
第28回

1章-5:主の前に先立ち

ルカ福音書1章57〜80節

本日は、イエス様の先駆者となるヨハネの誕生の様子を観察致します。

ルカのクリスマス関連の物語には、魅力的な聖書の箇所がたくさんあります。そのため、比較的地味なザカリヤの賛歌は、クリスマス礼拝に登場する機会が得られません。今年は、皆さんと一緒にルカ福音書を学んでいますので、取り上げる機会を得ました。

ルカ福音書の第一章には、感動的なマリヤへの受胎告知があります。それに応えたマリヤの信仰告白も見事でした「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」このような献身が無ければ、何も生まれません。

しかし、記事の分量から見ると、ザカリヤ夫婦とヨハネの誕生に関する物語のほうが、遥かに多く(2倍)マリヤの賛歌も、エリサベツとの関わりの中で生まれたものです。ですから、アドベントにヨハネのことを考えるのは、ルカの意図に沿っており、聖霊の意志ではないかと考えています。

聖書は、年老いた祭司ザカリヤとエリサベツ夫婦に男の子が授けられ、親族や近所の人々が集まって来て大喜びをしている様子を伝えています。前半は、生まれた男の子にヨハネという名前が付けられた経緯です。後半は、一時的に、言葉を失っていた父ザカリヤの口が開かれ、迸り出た感謝と喜びの賛歌です。

I. 名をヨハネとつけなさい

ユダヤでは、アブラハム以来、男子は生まれて8日目に割礼を受けました(創世記17:12)割礼は、その子が、神の民に加えられる契約のしるしです。その日は命名式でもあります(女子の命名は30日以内)

父親のザカリヤは口がきけません。そこで、周囲の人々は、母親のエリサベツに、父と同名の「ザカリヤ」と名付けるように勧めました。ところが、エリサベツは聞き入れません。

人々は「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」こう言って、彼女を説得しましたが、エリサベツが承服しないので、身振りを交えて父親のザカリヤに直接尋ねることにしました。

すると、ザカリヤは躊躇わず「彼の名はヨハネ」と、書き板に書いて人々を驚かせます。そして「たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」と、ルカは記しています。

ヨハネの語義は“主は恵み深い”或いは“主の賜物”と言った意味です。ザカリヤと言う名前は、旧約聖書に30人程登場するポピュラーなものです。その意味は「主の御名は誉れ高い」祭司の子に相応しい名前です。しかし、ここで重要なのは、名前の意味よりも、ザカリヤがガブリエルに教えられた通りに「ヨハネ」(1:13)と名付けたことです。ザカリヤは、10ヶ月前には信じられなかったガブリエルの御告を、今はしっかりと受け止めています。

II. ザカリヤの賛歌

祭司ザカリヤは、わが子の誕生を契機に、神が預言者イザヤを通して語られた「救いの時」が来たと確信したようです。そこから、ザカリヤの賛歌が生れました。

彼の賛美は、わが子に与えられた役割を高く歌い上げていますが、自分の息子の誕生が劇的だからと言って、徒に得意になってはいません。

「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである」(76-77)

ルカは、祭司ザカリヤについて「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた」と証言しています。ザカリヤは誠実な人でしたが、御使いガブリエルに出会った時は、マリヤと同様に驚き恐れて、冷静に対応できませんでした(1:9-17)彼に告げられた言葉が、彼の経験を越えていたので、即座に現実の事とは受け止めかねて、驚きのために物言えぬ身となりました。

その後、妻エリサベツが懐妊して、その印が日ごとに明らかになるのを見るにつけ、また、乙女マリヤの身に起こったこともエリサベツから聞かされた事でしょう。こうして、彼は待ち望んでいた救いの日が近いことを知り、確信を得たのでしょう。

ザカリヤは“わが子ヨハネ”と“マリヤの子イエス”の役割の違いを理解しています。真に偉大なのは神が遣わされる救い主です。わが子ヨハネは、その先駆者です。

彼の賛美は、預言者イザヤの言葉に基づいています「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照り」(イザヤ9:2)出したと。

ザカリヤの賛歌は、彼がわが子の誕生を通して、間もなくお出でになるイエス様を、その誕生より6ヶ月も前に、救いの希望の光として、まざまざと見ています。

III. イエス様の誕生は孤立していない

ヨハネ(バプテスマのヨハネではなく、漁師ゼベダイの子ヨハネ、イエス様の弟子の一人)の福音書は、イエス様の降誕を、全く別な表現で紹介しています。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(1:10-11)と記しました。神の子の受肉降誕が「おしのび(インコグニトース)」と言われる所以です。

確かに当時の大多数の人々は、救い主に無関心で、ベツレヘムに生まれた救い主に気づきませんでした。

しかし、ルカは、イエス様の降誕よりも先にヨハネの誕生を記して“イエス様の誕生物語は単独の出来事ではない”と告げているように思えてなりません。

確かに、イエス様はローマ皇帝の発令した人口調査の最中に、ベツレヘムの家畜小屋でひっそりと呱々の声をあげました。それでも、イエス様の誕生は、知る人ぞ知るできごとでした。マタイは、東方から来た博士たちについて語り、ルカは、ベツレヘムの羊飼いや、エルサレム神殿で救いを待ち望んでいたシメオンやアンナについて語っています。彼らは、救い主の出現を待ち望んでいた人々です。その中でも、イエス様との身近な関係に置かれて、その役割を担ったのがザカリヤ夫妻とヨハネです。

ヨハネの誕生は偶然ではありません。この時までエリサベツは不妊でしたが、イエス様の誕生に先立って、ヨハネを出産しました。父ザカリヤは、わが子の役割を「主のみ前に先立って行き、その道を備え」(76節)と讃えています。これは、御使いガブリエルから教えられた啓示そのままです(1:15)

このヨハネは、成人すると文字通りイエス様の先駆者(3:3-6)となりました。彼は、主の御前に先立って行き「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と叫んで、人々にイエス様を紹介しました。ヨハネは先駆者であり、先触れでした。

後に、ヨハネは獄中で、イエス様の名声の高まりを伝え聞きます。そして、自分が役割を果たし終えたことを知ると「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)と言って、従容として歴史の舞台からおります。

ヨハネの弟子たちは、些か心を悩ませたようですが、案ずることはありません。イエス様はこのヨハネについて「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(マタイ11:11)と、ヨハネを高く評価しています。

IV. イエス様の協力者

イエス様の公の活動は、僅か3年余りでした。時間的には短いのですが、その密度は濃く、弟子たちも主イエスを十分に理解したとは言えません。そこに、イエス様の孤独な一面が伺えます(ヨハネ2:23-24、8:29)

イエス様は、12人の男たちの未熟さを承知の上で、弟子として選び、寝食を共にしました。彼らを訓練して、将来キリストの十字架と復活の証人として派遣するためでした。

この事実は、神が、全世界にキリストとその御業を宣べ伝える為に、ヨハネを初めとして、たくさんの人材を必要としていることの現れです。福音は、闇に光を掲げ、悲しみや不安の中にある者には慰めと平安を与えます。死の恐れに直面している者には、永遠の生命の希望を与えます。ですから、主は弟子たちに「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命じました。

バプテスマのヨハネは、預言者時代を完結させ、先駆者としての役割を果たしました。しかし、繰り返しますが、彼が担った使命「主の前に先立って行く」責任は、今日も必要不可欠です。誰かが果たさなければなりません。

実際、この2000年間、ペテロやパウロを初めとして、有名無名のキリスト者が「主の前に先立って行く」務めを果たして、キリスト教宣教は私たちにまで届いたのです。

何が彼らを促したのでしょう。パウロは「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(IIコリント5:15)と書いています。彼の言葉は高尚ですが、真理は明解です“キリスト様からいただいたものは、お裾分けしなければならない”という単純なものです。そして「福音を宣べ伝えなければわざわいです」と公言します。


今日では、日本でも、クリスマスが様々な趣向を凝らして祝われます。教会のクリスマスは変わり映えしませんが、世間ではあの手この手、何でもありのクリスマスが横行しています。奇妙なことに、ただ一つだけ欠けています。クリスマスは、キリストの祭りですが、サンタクロースがクローズアップされ、キリストが排除されています。

ルカがイエス様の降誕に先立って、ヨハネの誕生を記したのは、ヨハネの役割に目を留めさせるためでした。ヨハネが、イエス様を指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証言した務めは、弟子達によって継承され、多くの先輩達によって担われてきました。そして私たちも、イエス・キリストの救いの希望を掲げる役割を負う者です。

今、私の心にあるイエス様の言葉は「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ10:42)

今日はクリスマスの名において、ありとあらゆるものが用意されていますが、ただ一つのもの、救い主を見失っています。いや、排除されていると言うべきかも知れません。

私たちは、ダビデと共に告白します「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」(詩篇16:2)

栄光主にあれ