8章-1:仕える女性たち
ルカ福音書の一つの特長は、女性の喜びや悲しみを取り上げていることです。7章では、一人息子をよみがえらせてもらったナインのやもめや、イエス様に涙ながらに香油を注いだ女性の物語が記されていました。本日の聖句は、イエス様の身辺で、女性たちがどのように宣教の役割を担ったか、簡潔に物語っています。
ここには、単に奉仕活動好きな女性たちがいたのではありません。ルカは“イエス様の福音宣教が、彼女たちの献身的で積極的な働きに助けられた”と証言しています。
1節で「神の国を説き、福音をのべつたえる」イエス様の姿を描き、2-3節には、女性たちの姿を描写しています。そこには「悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ(を初めとして)ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大勢の女たちもいっしょであった」と、記しています。
I. 様々な女性たちの協力
イエス様の身辺には、12人の男たちだけではなく、マグダラのマリヤをはじめ、ヨハンナ、スザンナ、その他大勢の女性たちがいました。
マグダラのマリヤは、イエス様に「七つの悪霊を追い出していただいた」と、紹介されています。私たちは、その詳細を知ることが出来ません。古代社会は、常識では考えられない不運や不幸、病気や苦労を悪霊の仕業と考えました。私たちは、マリヤの悲しみを具体的に知る事はできませんが、それでも多少の想像力を働かせれば、医者であったルカが「七つの悪霊に捕らわれていた」と表現したマリヤの過酷な境遇が偲ばれます。
ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ。ヘロデ王の執事と言えば国家の要職です。クーザの家庭に、どのようにして信仰が入り込んだのでしょう。確かな証拠は有りません。伝説は、ヨハネの福音書4章に登場する「王室の役人」とクーザを同一人物だと伝えています。
イエス様が、彼の息子を重病から癒された時「彼自身と彼の家の者がみな信じた」(4:46-53)と、記されているからです。この奇跡は、イエス様がなされた「第二のしるし」だと特筆されています(他にも、ヘロデの乳兄弟マナエンがアンテオケ教会の指導的な信徒であったことが記録されています。使徒13:1)
ヘロデとヘロデヤが営む王宮は、贅沢三昧・放蕩の限りを尽くし、中国的な表現をすれば酒池肉林を連想させます。この不敬虔で、欲情と残虐性の渦巻く泥沼に、神はクーザとヨハンナという清々しい花を咲かせました。同列には考えられませんが、日本の戦国大名・細川忠興の妻、玉子・ガラシャ夫人が敬虔なキリシタンであったことはよく知られています。神は、いつでも、どこからでも神の人を掘り出すことができます。
スザンナについては特筆されていませんが、ルカ福音書の読者には説明が要らないほど身近な人でした。その外、大勢の女性については、名前も明らかではありません。
彼女たちは、みな生い立ちも性格や能力も異なっていたことでしょう。それにも拘わらず、これらの人たちがイエス様を中心にして、一つの集団を作っていました。イエス様の懐は広くて深く、誰も締め出さない大きさを持っています。顧みれば、12人の男たちも、みな生い立ちや性格の異なる個性的な人たちでした。
大勢の人が集まるのは力強い事ですが、心を一つにするのは容易でありません。女性の一致と言えば、パウロも心を砕きました。
パウロが愛したピリピ教会には、ユウオデヤとスントケという女性たちがいました。二人とも優れた資質を持ち、福音宣教に貢献した人たちです。
男性の場合“両雄、並び立たず”と、言われることがあります。女性も同じようです。有能な人ほど、心まで一致するのは容易でありません。パウロは、その手紙の中で「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください」(ピリピ4:1-3)と、名指しで勧告しています。
この世では、自分と性格が違ったり、意見の異なる人を敬遠したり敵視する事があります。笑い話を一つ。ある教会で婦人会が分裂したことがありました。その原因は、大事なお客様を迎えるにあたり“和食にするか中華料理にするか”ということで、意見の一致が見られなかったそうです。不幸なことに、料理自慢が多過ぎたのでしょう。
預言者イザヤは、メシヤが訪れ、神の国が実現する時「狼は子羊と共に宿り、豹は子やぎとともに伏し・・・乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はマムシの巣に手をのべる」(11:6-9)と、途方もない平和に憧れました。平和とは中途半端なものではありません。イエス様の身辺では、その平和が成就していたと言えます。
イエス様を愛し、イエス様に従い、イエス様に仕える人々の間には平和がありました。私たちは、気心の知れた人々との交わりを求めますが、集まる人材が多種多様であれば、調和した時には、それぞれはいっそう美しく輝き出すものです。独奏も素敵ですが、オーケストラのように壮大な美を奏でることはできません。違いは可能性であり、キリストが平和の君です。
II. 仕える女性たち
彼女たちの奉仕はきわめて具体的でした「自分の財産をもって」と記されています。財産と訳された言葉は持ち物のことです。私たちの間では、財産と言うと何かまとまったものを意味しますが、ここでは、各々が持っていたものです。ある人は田畑をもっていたでしょうし、別の人は金銭を持っていたかもしれません。あの貧しいやもめ(ルカ21:1-4)のように、レプタ2枚しか持っていなかった者もいました。それでも、イエス様は「彼女は誰よりも多くささげた」と証言されました。
彼女たちの働きの特徴は、持っているところに従って仕えたことです。これは、大変積極的な姿勢です。パウロも「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい」(ローマ12:6-8)と、勧めています。
パウロは献金についても「今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです」(IIコリント8:11-12)と書いています。
「持たない物によってではなく、持っている程度に応じて」とはどういう意味でしょうか。たとえば、今日、私たち全員が財布の中に同じ額のお金を持っていたとしても、受け止め方は違うでしょう。ある人は多く感じ、別の人は少なく感じるかもしれません。ことは、金銭の問題だけではありません。神の恵みをどのように受け止めるかということです。
III. 奉仕の動力
3節には「自分の財産をもって彼らに仕えている大勢の女たちもいっしょであった」とありますが、彼女らが気前よく惜しみなく仕える事ができたのは何故でしょう。
神の恵みに満ち足りている感謝が無ければ、奉仕や献金は重荷です。分に応じ、力に応じてとは言いますが、習慣的な域を越える事ができません。
ヨハネは、私たちに問いかけています「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」(Iヨハネ3:16-17)と、愛の行動を促しています。
2節に「悪霊や病気を直していただいた女たち」とあります。ここで用いられている「直す(セラピューオーはセラピストの語源)」というギリシャ語の本来の意味は「仕える、しもべとなる」ことです。即ち、イエス様は、彼女たちの苦しみをご覧になって憐れみ、先ず彼女らのしもべとなって仕え、病を直されました。すると、主の奉仕によって心身を健やかにして戴いた者たちが立ち上がり、主にお仕えしています。その典型は、ペテロの姑です。彼女は、病を癒されると、早速もてなしを始めた姿が描かれています(4:39)
イエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われたときも「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」(ヨハネ13:14-15)と言っておられます。
イエス様の周りにいた女性たちは、身をもって体験した神の恵みに励まされ、それぞれ「自分の財産をもって」懸命に、主とその一行に仕えたのです。
IV. 仕える恵み
主イエスは「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」(マルコ10:42-43)と言われました。
私たちは「仕える」ことの本質をよく理解していませんが、実は、礼拝に通じる行為なのです。ですから「仕える」事には、喜びや満足があります。
尊敬する先輩が高齢になられた時「自分が誰かのお役に立つというのは嬉しいことです」と申していました。神様は仕える者たちに「喜び」という思いがけない報酬を用意していて下さいます。
パウロは、コリント教会に書き送った手紙の中で、マケドニアの諸教会について証言しています「兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」(IIコリント8:1-5)
イエス様の身近に仕えた女性たちは、イエス様の仕える生涯に生かされ、その愛に応えるために自ら進んで仕えました。私たちが生かされているのは、主に仕え、人に仕えるためです。他の人に役立っているとき、誇りを感じ、生き甲斐をおぼえます。若い人は自己を訓練し、壮年の人は惜しみなくご自分を主に注ぎだして下さい。