ルカの福音書説教

小林和夫師
第44回

9章-5:イエス様の正体

ルカ福音書9章28〜36節

私たちは、自分をキリスト者(クリスチャン)と呼びます。これは、私たちの先輩が名付けたものではありません。ルカが「使徒の働き」で「弟子(一般の信者の意)たちは、アンテオケで初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)と書いています。このアンテオケ教会は、無名の信者の集まりでしたが、やがて、初代キリスト教会の中でも指折りの教会の一つとなりました。

アンテオケ教会の誕生は、人間の思いや計画を越えた神の恵みのわざです。何故なら、エルサレムで高潔なステパノを石で打ち殺したユダヤ人は、キリスト教会への憎しみと敵意の飽和点を超えました。ダムなら決壊、原発ならメルト・ダウンです。そして、手のつけられない狂気の迫害が始まりました。

しかし、エルサレムから逃れた信者たちは、行く先々でイエス様を宣べ伝え、その結果生まれたのがアンテオケ教会です。後に、この教会に、バルナバとパウロが派遣され、やがて、この教会は世界宣教の拠点となりました(使徒11、13章)

キリスト者という名前の由来は、イエス・キリストを信じた人々が、日々、主のみ言葉に聞き従い、自分たちの思考と行動の規範をキリストに求めた事に起因します。教会を取り巻く人々は、信者の生活ぶりを見て嘲けり“連中は、明けても暮れてもキリストだ。一にもキリスト、二にもキリストだ”と、揶揄しました。そのとき使われた言葉が「キリスティアノス(キリストかぶれ)」です。最初に使った者たちは嘲りの意をこめましたが、時を経て、キリスト信者の誇り高い呼び名となりました。

それから1500年、宗教改革者たちも同じ経験をしました。彼らは聖書に基づき、絶大な権力を持つローマカトリック教会に立ち向かい、その改革を求めました。しかし、当時の教会権力からは“プロテスタント”即ち“抗議する者、小癪な連中”と、切り捨てられました。そのプロテスタントも今日では誇らしい名となっています。

日本でも一昔前まで“耶蘇(ヤソ)教”と呼ばれていました“ヤソ”とは、漢字でイエスを当てた言葉ですから、少しも問題はありませんが、その使い方は偏見と侮蔑と悪意に満ちたものでした。

しかし、この類の問題は時間が解決します。神の民をいつまでも謗ったり、辱めたりすることはできません。神の時が訪れ、真実が明らかにされると、真価が輝きだします。根拠のない偽りの非難は消え去ります。真理を担う者は、真理が明らかにされるまでの間、しばらく不公平な扱いに耐えなければならないようです。

イエス様は、弟子たちにそれを求めました「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」と。

主イエスは“私に従う道は、輝かしい目標に向かっているが、その道程は厳しい”と、明らかにされました。途中で挫折しないためには、途上にある困難を直視しても怯まず、乗り越えて余りある確信や希望が必要です。

主イエスが厳しさを求めた時、ペテロは戸惑い、異議を申し上げましたが、主は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)と、譴責されました。ルカは、武士の情けでしょう。イエス様がペテロを厳しく叱られた事を記していません。けれども、その言葉がわだかまりとなり、弟子たちの気持ちを怖気づかせたようです。

弟子たちの中に“これじゃあ、この先付いて行けない”と、密かに考えた者がいても不思議ではありません。彼らは、先ほど「あなたは、生ける神の子キリストです」と、告白したのですが、早くも人の子イエスの中に宿る神の尊厳を見失ったようです。このような躓きは、私たちの間でもしばしば起こることです。

28節によると、重苦しい日々は8日間も続いたようです。これは、イエス様と弟子たちとの交わりにおける危機的な状態です。意思の疎通を欠いた関係は、放置しておくと修復が不可能になります。速やかな解決が必要です。

イエス様は、この時「ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られ」ました。これが主の解決法です。主イエスでさえも、誤解や仲違いを癒すのに祈りの場を用いたことは注目すべき事です。主は「祈るために、山に登られ」ました。それは、弟子たちが見失ったものを彼らに取り戻し、再び主イエスの真の姿を確信させるためです。

I. イエス様の正体

ルカは、イエス様が「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」と書いています。ルカだけに見られる注意深い記述です。

「祈るために、山に登られ・・・祈っておられると、御顔の様子が変わり」と書いたルカは、異邦人でした。彼は祈りの重要性に目を開かれ、その祝福に心を打たれてこの言葉を記したのでしょう。イエス様はこの山上の祈り場で、ただ一度だけご自分の真の姿を弟子たちに示されました。いわば、ベールを脱がれたのです。

ヨハネは、後に証言しています「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)おそらく、この時の経験を物語ったものだと思います。

神の御子は人の子となり、私たちと同じ肉体をまとい、その栄光の姿を覆っていましたが、この時ばかりは、その栄光を見せてくださいました。このできごとを、イエス様の変貌と言いますが、実は、変貌したのではなく、本当の姿を見せてくださいました。イエス様が正体を現されたと言うべきではないでしょうか。

この栄光の場に、偉大な預言者モーセとエリヤが登場します。話題は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話して」いたようです。メシヤと言えば勝利者と考える弟子たちにとって、主イエスの受難は受け入れられないことでしたが、こうして、苦難が避けられない事実だと初めて認識しました。

ペテロは感動のあまり「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と、思わず声を発しました。いかにも唐突ですがペテロ的です。ルカは「ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである」と、説明しています。とにかく、この経験はペテロにとって「ここにいることは、すばらしいこと」でした。

イエス様とペテロや弟子たちとの間には、先頃まで暗雲が漂っていましたが、もはや、それも一掃され、憂うべきものは何もありません。この経験は、ペテロにとって終生忘れ得ない懐かしい思い出となりました。

ペテロは晩年「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(Iペテロ4:12-14)と、書いています。

II. これは、わたしの愛する子、これに聞け

イエス様は、三人の弟子に一度だけ、言葉に表せない経験を許されましたが、やがて雲が湧き起こって栄光の輝きは消え去っていきました。

そして、雲の中から「これは、わたしの愛する子。わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」という声を聞きました。既に、モーセもエリヤも消え去り「そこに見えたのはイエスだけ」でした。

これは示唆に富んだ表現です。弟子たちは、モーセやエリヤよりも偉大なイエス様と共にいたのに躓きました。そして、モーセやエリヤとの出会いに新鮮な驚きを感じました。しかし、すべての幻が過ぎ去った後に、天からの声が響き渡ります。

「これは、わたしの愛する子。わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」この言葉は、弟子たちの心をしっかりと捕らえて下さったようです「そこに見えたのはイエスだけ」という言葉も、主にだけ聞くことを指示しています。

天の声に裏打ちされた言葉として、もう一度イエス様の言葉に耳を傾けてみましょう「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(9:23-25)

私たちは、イエス様の栄光をヘルモン山上で見た訳ではありません。弟子たちも同様です。見ることを許されたのは三人だけでした。聖書の証言は、信仰によって受け止めるとき、私たちの知識となり確信となります。

ペテロも手紙の読者に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」(Iペテロ 1:8-9)と、念を押しています。

パウロは「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)と、記しています。

ルカが、イエス様の言葉を、ギリシャ語のアルファで始まる三つの動詞を用いて表現したことを前回お話しました。記憶し易いようにトリプルΑとしました。アルネオマイ、アイロー、アコルーオーです。

「自分を捨てる(アルネーサッソウ・ヘアウトン)」富や名声に淡白な人も自己主張は貫きたいものです。これが最大の重荷となります。早く身軽になってください。

「十字架を負う(アラトー・トン・スタウロン)」重荷を下ろして身軽になった者は、新しい荷を負うことができます。自業自得といわれる苦難は多いが、キリストの名のゆえに負う十字架とは何かを考えてみてください。

「主に従う(アコルゥセイトー・キュリオウ)」この道は、私たちを永遠の生命へ導き入れます。ルカはこの三つの命令をトリプル・アルファで記しました。