ルカの福音書説教

小林和夫師
第24回

7章-5:愛は多くの罪を覆う

ルカ福音書7章36〜50節

今朝、求められている祈りは、私たちが皆キリストの心を持つようになることです。私たちの目が、あわれみ深いイエス様の眼差しのようであれば幸いです。私たちの耳が、主イエスのように正しく聞き分けることができ、私たちの足も、主が歩まれた道を恐れずに進むことができればと祈ります。

私たちの生れながらの傾向は、自分を中心に物事を見、考え、判断し、行動したがります。古代ギリシャの哲学者は“人間は万物の尺度”だと言いました。この言葉の真意は、どこにあるのでしょう“人間こそ万物の基準・人間万歳”という、意味でしょうか。或いは“人間は自分の基準で他人を裁きたがる”という、痛烈な皮肉でしょうか。

私たちには、自分を基準として物事を判断する傾向があります。学んだ知識や若干の経験を総動員して判断を下そうとします。最近は聞かなくなりましたが、以前はよく耳にした言葉に“一億・総評論家”とか“一億・総藪医者”と言う言葉があります。政治・経済・医療・教育、誰でも一家言持っています(私に言わせれば・・・の類)良い時代です。

イエス様の弟子となり3年薫陶を受けたペテロでも、生まれ育ったユダヤ教の伝統的な価値観から自由になるのは容易でありませんでした。例えば、謹厳なユダヤ人たちは“外国人と食卓を共にするのは身を汚すことだ”と考えました。イエス様は、そんなことを少しも気にされませんでしたが、ペテロは大いに気にしました。このような差別意識を乗り越えなければ、キリストの福音を広く全世界に伝えることはできません。

ですから神は、ペテロを外国人伝道(具体的には、ローマの百人隊長コルネリオの要請に応える)に遣わす前に、夢うつつの中で伝統的な食物禁忌から彼を解放する必要がありました。ペテロは、夢の中でも新しい一歩を踏み出せずに躊躇しましたが、その時、神が彼に語りかけました「神がきよめたものを、きよくないといってはならない」(使徒10:15)と、断固とした言葉です。

ユダヤ教の戒律の下で育ったペテロは、キリストの弟子として生まれ変わっていましたが、律法や習慣のような歴史的価値観から脱皮するには、その都度、問題に向き合わなければなりませんでした。イエス様の取り扱いは、何事についても周到です。そして、その先に新しい隔てのない公正で自由な世界が開かれます。

本題に戻ります。この日、イエス様は、シモンというパリサイ人から食事に招かれました。このパリサイ人は、イエス様をワナにかけようとするほど悪意の人ではありません。さりとてイエス様を特に敬愛していた様子もありません(44-46節)彼は、今や時の人となられたイエス様の名声に無関心ではいられなかったようです。時流に遅れたくない。イエス様を自宅に招いた動機はそんなところです。率直に言えば、自分の好奇心を満足させるためでした。

I. パプニング

その食事の席で、思いがけない事が起こりました。ハプニングです。ユダヤ人の宴会は入口を開け放ち、物乞いでも入ることができたそうですM。

その日“招かれざる客”一人の女性が入ってきました。彼女の様子は「泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛で拭い、御足に口づけして、香油を塗った」と、描かれています。

ルカは、彼女の日常生活について、具体的には一言も触れていませんが、彼女の不名誉な評判は誰もが知っていたようです。

彼女を知っている人達は、彼女がこの場に相応しくないと考えたようです。彼女の侵入は、食事の交わりに不快な波紋を投げかけました。誇り高いパリサイ人シモンは、彼女の侵入により自分の家が汚されたと感じたようです。

ところが、主賓のイエス様は、この女性の行為を咎めることもなく、彼女のするままに任せています。シモンは、この女性に身を任せているイエス様を見て、口にこそ出しませんでしたが、心の中で審判を下しました「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられる筈だ。この女は罪深い者なのだから」こう決めつけて、イエス様に対する不信を募らせました。

シモンは“この女がどんな女か見抜くことができないイエスは、預言者と言えるだろうか。そんなバカなことはあり得ない”と、断定したわけです。彼の考え方は、偏見というよりも、当時の社会通念といったほうが近いと思います。

私にも一つの経験がありまして、シモンの困惑した気持ちが少し分かるような気がします。牧師として初めての任地で、求められて隣町の或る家で子ども集会を開くことになりました。その後、知らされたのは、彼女が老舗の若旦那のお妾さんという事実でした。

私は周囲の目を気にして、その家に向かうのは心も足も重かったのですが、当時小学校2年生だった一人息子の将来を案じて、断れずに二年ほど続けた事があります。

それから10年以上も経たある年のクリスマス、彼女から突然の電話がありました。彼女は、そのしばらく前に身辺を整理して、その年のクリスマスに洗礼を受けたことを知らせてくれました。彼女にお会いしてはいませんが、今も信仰を持ち続けていると聞いています。

II. パリサイ人の困惑

さて、パリサイ人は苛立ちました。この女性の侵入によって、自分の宴会が何もかもぶち壊されたと思い込んでいます。彼の不満はイエス様にも向けられました。言葉にこそ表しませんでしたが、その態度はイエス様を侮辱したようです。

当然の事ながら、彼は自分の立場から考えます。イエス様の御心を推し量ったり、女性の心情を理解することなど思いも及びません。彼は、涙ながらにイエス様の足を拭う女性の心にある悲しみや、何故、イエス様がこの女のなすがままにさせているのかを考えてみようとはしません。自分の体面を考えるだけで精一杯です。彼には、金や名誉は有ったでしょうが、他人に向ける心のゆとりは無かったようです。

平和な宴席に、飛び込んで来たのはこの女性です。その振る舞いは、いささか不躾でした。彼女の突然の侵入により、和やかな宴会は不愉快なものになりました。甚だしく迷惑な事には違いありません。

しかし、彼女は、涙するほどの問題を抱えており、解決を必要としていました。これは見過ごせない緊急事態です。そのためには、彼女に焦点を当てて考えなければなりません“何を優先すべきか”という、判断力が問われます。

あいにく、パリサイ人の最大の関心は、いつでも自分たちの平和や秩序を守ることでした。飛び入りの女性の問題を本気で考える度量はありません“面倒な事になった、不愉快だ、迷惑をかけないでくれ”と、いうわけです(学校がいじめを隠すのも同じ動機)

彼らの常套手段は、異質なものを排除する。排除できない時は無視する。それでも解決できなければ、根掘り葉掘り過去を暴きだして追い出します。そのようにして、自分たち中心の階級社会を作り上げてきました(今日の私たちの世界も大差ない)

この女性のこれまでの生活はともかく、彼女には罪を悲しんで悔いる、止めどない涙があります。パリサイ人シモンは、その涙の意味を考えようとはしません。

これは、単に無関心と言うだけでは済まされません。人間の本質が問われる問題です。神のかたちに似せて造られた人間の、愛と憐れみの欠如です。愛がなければ、彼らに名声があり立派な生活があっても無益です。

聖書は「たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」(Iコリント13:2)と教えています。

III. 主イエスの御心

そこでイエス様は、一つの例え話を語り“何が愛を芽生えさせるのか”と問いかけ、パリサイ人シモンの心を揺さぶりました。

人は多かれ少なかれ、神のみ前では負債者です。この女性は、道徳的には他の人よりも大きな失敗者でした。ですから、自分の罪を悲しみ、赦しを求めてイエス様の足元にぬかずいています。彼女の涙は、その一滴一滴が魂の叫びです「主よ、憐れんで下さい(キュリエ・エレーソン・メ)主よ、赦してください」と祈ります。いつでも、どこでも、イエス様は、このような祈りを聞き逃すことがありません(マタイ9:27、ルカ18:38)

このパリサイ人は、外聞ばかりを気にしました。彼は、この女性を蔑み遠ざけることで自分の立場を守ろうとしました。イエス様は、黙ってこの女性の嘆きやざんげ、赦しを求める声なき祈りを受け入れてくださいました。しかし、無知で冷やかな傍観者たちは、このあわれみ深いイエス様を侮ります。

確かに、この女性の侵入はハプニングでした。この類の事が起こると、私たちはそれを収めようとして躍起になります。その時、忘れてならないのは、その事柄に携わる者たちが、問題をどう扱うかが問われているのです。

彼女の問題提起は尋常ではありませんが、これに正面から向き合って答えたのは、自分本位なパリサイ人ではなく、あわれみ深くこの女性を受け止めたイエス様です。

この女性を受け入れる。換言すれば、彼女を憐れみ赦すイエス様の愛が、この女性に勇気を与え、感謝を溢れさせ、愛情豊かな振る舞いへと駆り立てたのではありませんか。それが、そのまま彼女の再生につながります。

イエス様は、彼女の感謝を受け入れて「あなたの罪はゆるされた」と言われ、この女性を目に見えない檻から解放されました。愛が人を受け入れ、生かし、勇気づけ、解放し、新たな可能性を生み出すのを見せられる場面です。

今日も様々な罪が氾濫しています。時には、罪が興味本位に暴かれ、さらし者にすることもあります。それでは、傷口に酢を注ぐようなものです。

罪を悔い改めて立ち直らせるものがあるとするなら、それは、罪とその汚れを包み込む大きな愛です。罪は濁流のように奔放ですが、愛は千歳の岩です「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流す事ができません」(雅歌8:7)愛は、多くの罪を覆います。

「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)