ルカの福音書説教

小林和夫師
第5回

3章-4:イエス様の力の秘訣

ルカ福音書3章21〜22節

本日は、二人の方の洗礼式おめでとうございます。今朝朗読された聖句は、イエス様の洗礼式の光景を物語っています。嬉しい巡り合わせです。

バプテスマのヨハネの名声を聞いた人々は、ユダヤ全地からヨハネのもとに集まって来て、ヨハネから洗礼を受けました。イエス様も、民衆と同じようにヨハネから洗礼を受けました。イエス様は、この時から公の生涯を始めました。

洗礼の記述は僅か2節ですが、イエス様のスタートに相応しい要約です。イエス様と私たちの間には、神と人・創造者と被造物という本質的な違いがあります。しかし、イエス様は、私達と同じように洗礼を受け、この日から力強く活動を始めました。イエス様の生き方は私たちの模範です。イエス様の苦難の道を支えた力の秘訣を学びたいと思います。

I. イエス様の洗礼

当時の洗礼は、異邦人がユダヤ教に改宗するとき、入会の儀式として行われたものであり、宗教的な汚れをきよめるしるしでした。この洗礼を、ヨハネは、既に割礼を受けて神と契約を結んでいるユダヤ人にも広げました。

ヨハネは、神の前ではユダヤ人も異邦人も、罪を悔い改める必要があると考えたからです。それで、ヨハネの洗礼は「悔い改めのバプテスマ」と言われます。

イエス様も、洗礼を受けるためにヨハネの所へ来られました。ヨハネは、群衆の中にイエス様を目敏く認め、洗礼の志願を受けて当惑しました。ヨハネにとってもイエス様は別格です。ヨハネは躊躇して「私こそ、あなたからバプテスマを受ける筈ですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と尋ねます。するとイエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(マタイ3:14-15)と、応えられました。

もちろん、イエス様は罪を知らない方です。悔い改めのバプテスマを必要とはされません。しかし、イエス様は、ご自分を私たち罪人と同じ立場に置かれたのです。

この世界では、自分に任された権利を悪用する者が後を断ちません(一例をあげれば、議員の活動費が遊興費に)イエス様は神の子の栄光を捨て、罪深い私たちと同じ立場に身を置き、人の世の秩序に従って行動されました。

人間は傲慢で、体面を重んじる傾向がありますが、イエス様は、ヨハネの許で辞を低くし、躊躇わずに洗礼を受けました。

そして、後に教会に命じました「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)

洗礼を“形式に過ぎない”と批判する人がいますが、キリスト者が洗礼を受けることは、イエス様の言葉に従い、イエス様に見習う最初の一歩です。どなたも洗礼を受けることを躊躇ってはなりません。本日の洗礼式、喜ばしいかぎりです。

私たちは洗礼を受け、罪赦されて神の子となります。神の子であるイエス様は、洗礼を受けて罪人の一人となりました。パウロは、この人知を越えた神の計らいを「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(コリント5:21)と、解き明かしています(ローマ11:33)

II. 祈るイエス様

イエス様は、洗礼を契機として神の国を宣べ伝えることに専念されました。イエス様のチェンジです。ルカは、このイエス様を「祈る人」の姿に描いています。ですから、ルカ福音書では、イエス様の祈る姿を幾度もお見受けします「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」(5:16)と、記されているほどです。

ルカ福音書には、いくつか顕著な特長がありますが、その一つは、祈るイエス様を見せることです。本日の洗礼の場面(3:21)6章の弟子の選出(6:12)9章のヘルモン山頂で変貌された時(9:28)いずれも、ルカだけが注意深く祈るイエス様を伝えています。十字架の上でも、イエス様は「父よ彼らをお赦しください・・・」(23:34)と祈りました。

イエス様から学ぶ最初のレッスンは、父なる神に祈ることです。父なる神に祈ることがイエス様の力の秘訣であることを学び、祈る習慣を身につけてください。

祈る姿は信頼に満ちています。自分を過信する者は傲慢になりますが、神に信頼する者は謙虚にされます。しかし、無気力になることはありません。神に信頼して祈る事は、私たちの勇気と希望の源泉です。

ある意味では、イエス様の生涯ほど報われない悲惨なものはありません。弟子の一人・ユダに裏切られ、病を癒しパンを与えた群集には「十字架につけよ」と罵られました。何一つ罪を犯したこともないのにムチで打たれ、辱められました。その時、弟子たちはみな、蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。そして、最後は十字架刑です。しかし、十字架のイエス様を仰いで慰められた人々は無数です。ユダヤ人を匿い、ナチスの強制収容所に投獄されたオランダ人女性、コーリー・テン・ブームもその一人です。

ヘブル書は「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)と、証言しています。イエス様を苦難の中で支え、勝利者とした力は正しくその祈りでした。

ある方が“へりくだらないと祈れないことが分かった”と申していました。その通りです。キリスト者の祈りは、お勤め、気休め、自己満足、自己陶酔の類ではありません。

父なる神に向かい合い、自分をさらけだし、赦しと助けを求め、導きを求めるのです。祈りは神を求めることです“私には力がありません。主よ来て下さい”“私は汚れています。主よ来て清めて下さい”“私には知恵が欠けています。主よ来て教えて下さい”“私は病み疲れ傷ついています、主よ急いで来て下さい”“私の心は悲しみ、不安に怯えています。主よ来て平安をください”“私は失望しています。主よ、今すぐ来て下さい”すると「わたしはあなたと共にいる」という、慰めが湧き上がってきます。

イエス様の祈りは多様です。感謝があり、執り成しがあり、苦悩の中で憐れみを求めます。私達も、祈りによって神を呼び、神に近づき、神を迎え入れ、共にいます神に支えられます。祈りは題目を唱えることではありません「アバ父」と神を呼びます。絶えず祈って下さい。

III. 聖霊は鳩のように(22節)

祈りは神を求めることです。22節では、祈るイエス様に「聖霊が、鳩のような形をして」くだった様子が描かれています。人となったイエス様の上に、神の聖霊が下りました。これは、神と人が共にいる光景です。祈りの応えです。

神の聖霊は、イエス様の上に鳩が舞い降りるようにくだりました。実に穏やかな光景です。鳩はノアの洪水以来、平和と希望のシンボルです。

後に、ペンテコステの日に弟子たちの上に下られた聖霊は、あらゆるものを焼き尽くす炎のように見えました(使徒2:1-3)この違いは歴然としています。

イエス様には、焼き尽くされなければならない罪はありません。聖霊が私達に下られる時、私達の古い人は焼き滅ぼされます。私たちの内なる人が痛みを伴うのは必然です。

イエス様は「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言われました。両者は永遠に不可分な関係です。しかし、ルカはここで、祈りの応答として聖霊が下られたと書いています。

後に、イエス様もたとえ話の中で「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(11:13)と、教えています。神を求めて、神の聖霊を得る。祈りの恵はここにあります。

顧みると、人が罪を犯して失った最大のものは、エデンの園追放に象徴されるように、神との交わりでした。ですから、神との交わりを取り戻してくださった救主の御名をインマヌエル(神我らと共にいます)と呼びます。見事に整合しています。

私たちの祈りも、初めは身近な必要を求めて祈ります。衣食住のために祈ります。しかし、それにとどまらず、神ご自身を求めて祈りたいものです。神の御前に、神と共に生きるためです。贈り物よりも贈り主が大事です。

人生には予期せぬ事が降りかかります。しかし、神が共にいるなら、失業も、失恋も、失敗も、病も、死さえも克服できるでしょう。

パウロは「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:35-39)と、凱歌を上げています。この勝利は「常に喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」(テサロニケ5:16-18)者への賜物です。

IV. 父なる神の認証(22節)

最後に、父なる神は「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われます。イエス様は、今スタートについたばかりです。まだ、何一つ実績がありません。それでも、最初の一歩は、神に愛されている確信に支えられて踏み出します。

本日洗礼を受けられる方々は、今日、神の子としてお生まれに成りました。まだ、何の実績もありません。でも、赤ちゃんの誕生を考えてみましょう。生まれたと言う事実は、その家族に測り知れない喜びをもたらせます。神の子は、神の家で、どの子も高価で尊いのです。

父なる神は「父よ」と、祈り呼びかけるイエス様に満足しています。私たちは、行いによって神に喜んでいただく事はできません。もし、そのような道を選べば、私たちは行き詰まるでしょう。幸いなことに、私たちは、初めから愛され喜ばれています。

その上で、パウロはコロサイ教会に次のように書いています「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように」(1:9-10)

先ずは、祈ることから始めてください。