ルカの福音書説教

小林和夫師
第42回

9章-3:神の恵みを背に負って

ルカ福音書9章10〜17節

本日の聖句は、五つのパンと2匹の魚で5000人が養われた事を物語ります。その日も夕暮れが迫り、人々が空腹を覚えるころ、イエス様は五千人の人々を満腹させる大饗宴を開かれました。メニューは大麦のパンと干し魚という簡素なものですが、すべての人に惜しみなく与えられた、分け隔てのない食卓でした。私たちも、この出来事を“パンの奇跡”“5000人の給食”などと呼んで親しんでいます。

イエス様と弟子たちが用意した食卓の素晴らしさは、5000人を満ち足せたというスケールの問題だけではありません。主が、人をその思想信条で区別せず、誰でもこころよく迎え入れてくれることです「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言われた通りです。主に近づく間口は、地平線のように開かれています。

この奇跡の重要性は、イエス様の数ある奇跡の中でも、これだけが四つの福音書全部に記されていることです(ガリラヤのキリスト昇天教会には、この光景を物語る5世紀のビザンチン・モザイクが祭壇下の床に残っているとの事です)この奇跡が物語る意味を、ルカの視点から、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

I. 事の発端

先ずことの発端です。何事にも切っ掛けがありますが、人生の大事件は、しばしば、ごく些細な事から展開します。ルカは、その日のイエス様の行動を「イエスは、彼らを連れてベッサイダという町へひそかに退かれた」と書いています。これは「イエスに会ってみようとした」ヘロデに、会いたくなかったからでしょう。

しかし、イエス様はどこへ行っても、身を隠すことができません。その存在は、闇に輝く光のようです「あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」(エレミヤ29:13)と、聖書に約束されています。イエス様を慕い求める者は、必ず救い主にお会いすることができます。

イエス様の噂をどこで聞きつけたのか知りませんが、多くの群衆が主イエスの傍に集まって来ました。イエス様も「喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをお癒しに」なりました。求める者は得、捜す者は見出す幸いな時です。

やがて陽が傾き夕暮れが迫ると、弟子たちは落ち着かなくなりました。気がかりがあったのです。そこで、手遅れにならないように、イエス様に進言しました「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから」と。

弟子たちが一日の活動の後で、くつろぎの時を求めるのは当然です。彼らが“店終い”の看板を持ち出したからといって“身勝手で不親切だった”わけではありません。ところが“やぶ蛇”でした。イエス様は彼らに逆提案をされたのです。

主は「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい」と、命じます。これは、弟子たちが予期しなかった言葉です。いや、もしかすると、彼らが心の中で“こんなことにならなければいいがな・・・”と、案じていたことだったかもしれません。ありそうなことです。

弟子たちは群衆を解散することを望んだのに、新しい仕事を負わされることになりました。彼らは、五千人ほどの群衆を前にして途方にくれました。とにかく、食料になりそうな物をかき集めてみたのですが、うまくいきません「私たちには、五つのパンと二匹の魚のほか何もありません」と、失望を漏らしています。

弟子たちは、問題の見かけの大きさに圧倒されています。ここには主イエスがおられ、彼らには神に祈るという奥の手があるのですが、それも忘れてしまったようです。

以前、彼らが福音宣教に派遣された時、イエス様は彼らを手ぶらで派遣したわけではありません。手荷物は最小限、お金やパンはわずかでしたが、主イエスは彼らに特別な恵み「力と権威」を授けられました。

この度もイエス様は「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい」と、言われます。弟子たちには無理難題に聞こえましたが、どうしたらよいかは、主がご存じです。

主は早速行動に移り、恵みの業が繰り広げられます。主が求めるのは、主の御業に意欲的に参加する者たちです。主役はイエス・キリストです。私たちは信仰と愛と希望を総動員して、怯まず、諦めず、意欲的に参加を表明することです。

この出来事から二つの事を学びます。一つは、イエス様の民衆へのあわれみ、もう一つは、弟子たちへの懇ろな思いです。

II. 主イエスのあわれみ

11節に「イエスは喜んで彼らを迎え」とあります。これは、イエス様があわれみ深いからです。この時、イエス様の所へやって来た人々は、いわば時間外に病院を訪ねる急患のような者です(最近は、休日でも救急指定医が定められていますが、私たちの子どもが幼い頃は、医院の玄関で断られることが珍しくありませんでした)

医師に制限時間がなければ、彼らの健康がもたないことは承知していますが、長女のいずみが4才の時に耳の痛みを訴え、駆け込んだ内科の医師に断られて途方にくれました。駆け込んだ薬局の主人が、引退して近くに住んでおられた高齢の耳鼻科医を紹介してくださり、助けられたことがありました(38年後、家内のシェーグレン症候群を突き止めてくれたのも、世代代わりしていましたが、同じ片岡耳鼻科でした)

マルコの福音書は、イエス様が群衆をご覧になった時の心情を「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ(スプランクニゾマイ)」(マルコ6:34)と、書いています。この言葉の用法は、新約聖書では神のあわれみにだけ限定されています(福音書にのみ12回使用され、ルカが愛用した)

イエス様は「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(ホセア6:6)と、預言者ホセアの言葉を二度も引用しています(マタイ9:13、12:7)ご自分の行動の規範が、あわれみにあることを示されたことは、言うまでもありません。

今日、人々は公平や正義を求めます。これが念願かなって法制化されると、事務的に処理されることになり、あわれみの働く余地が小さくなります。被災地の人々に義援金が速やかに届かないことに苛立ちを感じましたが、担当者としては扱ったこともない程の大金をまかされ、慎重にならざるを得なかったのでしょう。遅れている人々には、後回しにされたような不快感が残るのも無理ありません。随分不満も聞きました。

幸いなことに、誰でも聖書を開いてイエス様の前に立つなら、自分が疎外されていない事を知ります。主イエスの呼びかけは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と、招いて下さいます。

私たちは、このような言葉に、私たちを受け入れ、生かして下さる主イエスの愛を見いだします。ここでも、あわれみ深い主が「あなたがたで何か食べるものをあげなさい」と、弟子たちに命じました。

“さっさと切り上げないと、次の行動に移れない”というのが、弟子たちの苛立ちでした。私たちも同じです。いつも、次の課題に追われて慌ただしく生活しています。

けれども、イエス様のプログラムは、弟子たちの都合によらず、飢え渇いている人々の求めるところにあります。イエス様の内に満ちているあわれみに基づいています。主イエスは「羊飼いのいない羊のよう」に、疲れ果てた人々をあわれみ、その必要を優先させ、空腹のまま帰らせてはならないと命じました(難民高等弁務官・緒方貞子の行動原理も然り)

こうして「人々は、みな食べて満腹し」ました。ここには、満ち足りた喜びがあります。ひとり残らず満足したのです。

ヨハネの福音書には「彼らに、欲しいだけ分けられた」(6:11)と、書かれています。イエス様にふさわしい分配です。

英国の牧師ジョージ・ダンカンの青年時代の説教に、こんな例え話があります。ある飢饉の年、その地方の地主が焚き出しをした話です。彼は村人に“炊き出しをするから、器を持って集まるように”と、呼びかけました。人々は、親切な地主に感謝して、みな行儀よく、それぞれ見栄えの良い食器を持参しました。ところが、一人だけ洗面器を持って来て、みなの顰蹙をかった者がいました。けれども、彼の望みはかなえられ、周囲の羨望の的となりました。神に祈り求める時、他人行儀は無用です。主は「彼らに、欲しいだけ分けられ」ます。

III. 弟子の取扱い

この日、主の弟子たちは、日没間際にウエイターに早変わりしました。彼らが望んだことではありませんが、それは、終生忘れ得ない経験となったことでしょう。

イエス様は、どうしたら良いかを知っていましたが、敢えて訊ねました「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」(ヨハネ6:5)早速、計算の得意なピリポが群衆の数を推定して「二百デナリのパンでは足りません」と、答えました。知恵のある者が、最初に知恵の限界に遮られます。知者は、己の知恵の枠から出られない傾向があります。真の知恵は神への信頼から生れると、イスラエルの箴言は教えます。神への信仰と畏れの伴わない知恵は、遅かれ早かれ行き詰まるものです。

ペテロの兄弟アンデレは、躊躇いながらもイエス様に望みを託して、少年の弁当と思われる5つのパンと2匹の魚を差し出しました。常識は“そんなもの、何の役にも立たない”と、言下に拒むでしょう。けれども、アンデレには期待がありました。

主イエスは、この出来事を通して「神に望みを置く」豊かな可能性を教えています。主は、感謝してパンと魚を裂き、群衆に配るように命じました。まさしく聖餐式の前味です。弟子たちは、イエス様と最後の晩餐を共にした時、裂かれたパンが予表していたのは主の御体だったと、思い当ったのではないでしょうか。

最後に「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい」(ヨハネ6:12)と言われた、主イエスの御心を心に留めてください。

ここでイエス様は、物を大切にすることを教えているだけではありません。残りは12カゴ。12人の弟子の背に一つずつ。これは、彼らの新しい荷物となりました。しかし、嬉しい恵みのしるしです。背に負うパンの重さは、キリストの憐れみ、恵み、力を物語ります。

弟子たちは、神の恵が一つも無駄にならぬように拾い集めて背負い、主イエスに従います。ここには、空荷の弟子はいません。みな、背に荷を負います。この荷は、以前負っていた罪の重荷ではありません。この重さの一つ一つは、キリストの恵みを深く偲ばせるものです。また途中で飢えた人に出会えば、分け与えることができます。神の恵み、これこそ私たちも負うべき荷ではありませんか。弟子達が、かごを背負って主に従う光景、その延長に私もいるか。