ルカの福音書説教

小林和夫師
第16回

6章-2:弟子の選びと派遣

ルカ福音書6章12〜19節

本日の聖句は、イエス様が12人の弟子を選ばれた経緯を物語っています。12という数は、イスラエルの12部族に因んだものです。選ばれた者の中には、ガリラヤ湖の漁師だったペテロやヨハネ、取税人だったマタイもいます。この名簿に「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」という名があるのは、測り知れないイエス様の度量を示すものです。

説教題に掲げた言葉、弟子・選び・派遣は、いずれも重要な意味を持っています。弟子といえば“弟子と成したまえ”という聖歌を想起します。その英語の歌詞は“Lord I want to be a Christian”キリスト者と弟子は同義語です。

選びに主のみ声を聞きます「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)

派遣は最後のお言葉「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:18-20)その意味では、欲張りすぎた説教題ですが、しっかり受け止めてください。

私たちの救いは、人の子となられた神の子イエス・キリストだけが成し遂げて下さったものです。ペテロは、イスラエルの同胞を前にして「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と宣言しています。

イエス様は、ご自分が成し遂げた罪人の救い、この福音を全世界に伝えるために弟子たちを必要とされました。以来2000年、この福音は、地の果てを目指して有名・無名の人々によって伝えられ、私たちにも届きました

言うまでもない事ですが「イエス・キリストの十字架による罪の赦しと復活の希望」を伝えてきたのは、牧師や宣教師だけではありません。牧師には、教会で説教する場が与えられていますが、世の中の人々に対しては、信徒の方が遥かに重要な役割を果たして来ました“羊飼いには羊は産めない”と言われるほどです。

パウロは、宣教の使命に関して「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(IIコリント5:15)と、明白に述べています。教会もこれに応えて、宣教をキリスト者の使命として受け止めてきました。

本日の聖句を考察して、イエス様の御心に少しでも近づき、キリストの証人となる意味を考えてみたいと思います。

I. イエス様の徹夜の祈り

ルカは、福音書の随所で祈るイエス様の姿を描いています(3:21、5:16、6:12、9:18、29)イエス様が、弟子たちを選ばれた前夜の描写も「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた」と記しています。これは、5章で物議を醸した人々の言葉を意識したものでしょう。

彼らは「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」(5:33)と、非難しました。それに対して、ルカは祈るイエス様を掲げています。

ところで、パリサイ人たちは、いつ・どこで祈ったのでしょう。イエス様の言葉から推測できます。主イエスは「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです・・・あなたは、祈るときには、自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:5-6)と言われました。

彼らは人目につく所で祈ることが好きでした。彼らの祈る姿は誰の目にも留まりましたが、隠れたところにおられる神に祈るイエス様の姿は、彼らの目には隠されていました。イエス様は、夜、山に退いて祈られました。

イエス様はよく祈られましたが、この日、イエス様が夜を徹して祈られた状況は特別です。十字架前夜のゲッセマネの祈りと双璧をなすものでしょう。

ゲッセマネで、イエス様は汗を血のように滴らせて「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:44)と祈られました。

この夜の祈りは、ゲッセマネの祈りと同じほど重大な祈りだと言えます。ここには、長時間祈ったという事以上の意味があります。

この祈りの課題が、弟子の選定であることは明らかです。ある意味では、この単純な決断のために、イエス様は夜を徹して祈りました。おそらく、この時も主イエスは「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と苦闘したのではないでしょうか。

イエス様は、ユダの裏切りを予知していました。それ故“イスカリオテのユダをどうするか”という問題を抱えて、人間イエスは苦悩されたと思います。ヘブル書の記者は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです・・・キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル4:15-5:8)と証言しています。

イエス様は“全世界の罪”という大儀名分を引き受けただけではありません。ユダの裏切りという、個人的な罪をも甘んじて受けられたのです。

II. 弟子を選び

人生の大事を決断するとき、しばしば衝動に駆られることがあります。しかし、利害に引きずられるような過ちを犯してはなりません。旧約聖書の箴言には「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5-6)とあります。

私たちが人生の岐路に立つ時、心を静めて神に祈りつつ御心を求めるのは、イスラエルの敬虔な人々から継承してきた信仰の姿勢です。人の子となられたイエス様は、その姿勢を徹底的に貫かれました。弟子を選ぶに当たっても父なる神に祈りました(ヨハネ5:19)

それでも、イエス様が徹夜の祈りをされるとは意外でした。ここには“ユダをどうするか”という問題だけではなく「選ぶ」ことが持つ重要性が暗示されています。

来月、参議院議員選挙が行なわれます。選挙権は歴史的には戦い取った権利です。今日は、権利に敏感で自己主張の強い時代なのに、この権利を4割以上の人が放棄しています。無関心ではすまされない問題です。

「選び」に関しては、神学者を二分する果てしない議論があります。学者が論じると誰も理解できない泥沼に陥ります。選びに関して、私の脳裏に真っ先に浮かぶのは、イエス様の発した「マリヤは良いほうを選んだのです」(ルカ10:38-42)という言葉です。

イエス様の一行が、旅の途中でベタニヤ村のマルタ・マリヤ姉妹を訪れた時のことでした。姉のマルタは、イエス様を喜び迎えて持てなしました。しかし、13人の来客です。接待するのに追われてマルタは心を乱しました。彼女は些かヒステリックな声を上げ「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」と訴えました。

自分が接待の為に立ち働いているのに、妹のマリヤがイエス様の膝元に座ってお言葉に聞き入っていたからです。マルタのように献身的な女性でも、自己制御のできないことがあるようです。彼女は、イエス様にも少々腹を立てているようです。

この時、イエス様は「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」と言われ、マルタを諭し、マリヤを弁護されました。

マルタには、妹のマリヤが優柔不断・気配りのできない愚図にしか見えませんでしたが、主イエスは、マリヤの“選びと決断”を知っておられました。

“マリヤは気が利かない・・・マリヤは身勝手だ”という批判は当たらないと、イエス様が判断されました。マルタには、あれもこれも雑然と見えていました。彼女の目には“マリヤには何も見えていない”と映りました。しかし、マリヤの目はすべてを見通した上で、ぎりぎりの選択をしていたのです。

イエス様が言われるように、マリヤは優先順位を違えず「良いほうを選んだのです」マリヤの沈黙の行為にも「選び」があり、犠牲が払われていることをマルタは知りませんでした。

主イエスが「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)と言われた時、主の「選び」は、信頼と愛と犠牲の証です。選ばれた私達も、それに相応しくありたいものです。

III. 使徒として任命する

イエス様が12人を選んだ目的は、彼らを「使徒(アポストロス)」と命名して派遣することでした「使徒」の語義は「遣わされた者」です。この言葉が私たちに思い出させるのは、イエス様ご自身が「父なる神から遣わされた者」と、自己認識されていたことです(ヨハネの福音書に繰り返されている)

イエス様の任命は「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:18)と明らかです。

主イエスが、選んだ弟子たちを「使徒」と呼んだのは、ご自分が父に遣わされたように、弟子たちにその役割を認識させ、訓練し、遣わすためでした。

イエス様は「わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです」(8:26)と忠実さを示し、最後の晩餐の席では「遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません」(13-16)と訓戒されました。使徒とされた弟子に求められたのは、主イエスの前に謙って忠実に仕えることです。

パウロは「使徒」の意義を誰よりも厳密に認識し、その責務を忠実に果たしました。彼は委ねられた福音そのものの権威を尊重し、自分が使徒(遣わされた者)であることを決して忘れませんでした。