ルカの福音書説教

小林和夫師
第31回

2章-3:主は律法の下に生まれ

ルカ福音書2章21〜24節

日本でも赤ちゃんが生まれると、7日目を御七夜といってお祝いする習慣があります。その起源は明らかではありませんが、新しい生命の誕生は喜びであり驚きです。神様に感謝せずにはいられない人生の大事です。

旧約聖書によれば、イスラエルでは、男の子が誕生すると8日目に割礼を施す規定があります。この割礼の儀式は、彼らが信仰の父と慕うアブラハムまで遡る4千年近い歴史を持っています。神様が、アブラハムの将来を祝福して契約を交わされた時、目に見える印として与えられものです(創世記17:9-14)体に刻まれた契約書です。

本日の聖句は、幼子イエス様の割礼と、律法に基づいた初子の聖別と犠牲にも言及しています。これは、イエス様が神の子であるにもかかわらず、ふつうの男の子と同じような取り扱いを受けられた事を物語っています。

パウロは、イエス様の降誕の意義と目的を「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」(ガラテヤ4:4-5)と、明解に述べています。

罪を犯すと、警察の追求を逃れるために国外へ逃亡する人がいます。国交が樹立されていない国ですと、国法が及びません。例えば、北朝鮮などでは、日本人の犯罪者は裁かれる事がありません。国宝には制限があります。

しかし、全世界は、創造者の法の下にあります。この世界には、神の裁きから逃れる事のできる場所はありません(詩編139:7-10)そして、神の法は「義人はいない。一人もいない」と宣言します。

イエス様が受肉されて、私たちの世界へ来て下さったのは、ご自分を私たちと同じ立場(即ち律法の下に)置き、私たちの代りに裁きを受けるためでした。

ご自分を律法の下に置くとは、イエス様にとって神の子の特権放棄です。人間は、どんなケチナ特権にもしがみつく傾向があります。そして、既得権を潔く放棄することができません。しかし「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ・・・人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」(ピリピ2:6-8)ました。

新約聖書のヘブル書記者も「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者」(5:9)となられたと証言しています。

ルカは、イエス様の誕生物語を、マリヤの処女降誕という神の奇跡として語りました。まさしく神の子です。しかし、人の子として生まれたイエス様は、徹頭徹尾人の子と成りました。イエス様の生涯には、いわゆる「顔パス」(特権行使)がありません。

I. 律法の下に生まれたイエス様

ルカは、イエス様の最初のでき事を伝えるこの場面で、律法という表現を三度(22,23,24節)繰り返しました。それによって、ルカが意図したのは、イエス様の生涯に於いても、律法の要求は無視できなかったということです。そして、イエス様が、律法の要求を完全に満たした事を明らかにすることでした。

人の子となられたイエス様は、人間としての義務を何一つ省略されません。8日目の割礼と命名に始まり、初子としての聖別があり、犠牲の動物がささげられました。

8日目に割礼を受けて、幼子はイスラエルの民籍に加えられます。割礼を受けないと、イスラエル人(契約の民)として認められません。

パウロは、イスラエルのなかで形骸化した割礼に憤りを覚えていました。信仰の実質を持たずに割礼を受けたことを誇る人々に「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラテヤ5:6)と、主張しました。しかし、割礼そのものの意義を軽んじたことはありません。彼がその秩序を尊重したことは良く知られています。

パウロは、青年テモテを伝道旅行に伴うにあたり、テモテに割礼を施した経緯があります。“今更なぜ”の感がありましたが、ユダヤ人との間に生じかねない無益な論争と混乱を避ける配慮でした(使徒16:1-3)

イエスという名前は、乙女マリヤがガブリエルから受胎告知の時に告げられた(1:31)ものです。マリヤの夫・ヨセフも、この名前を夢の啓示で教えられていました(マタイ1:21)イエスとは、イスラエルをエジプトから救出したモーセの後継者・ヨシュアの名前に因んだものです。それは「神は救い」という意味です。

また、男の子は生後40日(清めの期間・レビ12:1-4)たつと、律法にしたがって宮詣でをする事が定められていましたが、この時ささげられる犠牲も見過ごせません。

旧約聖書のレビ記によりますと、出産感謝のいけにえは、一歳の子羊と規定されています。しかし「もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい」(レビ12:8)とあります。この規定は、貧しい者に配慮を見せています。ヨセフとマリヤには、出産感謝をささげる時にも経済的なゆとりがなかったようです。このように、イエス様は神の子でしたが、極度に貧しい家庭の子として、律法の定めに従われました。

律法のもとにあるイエス様

律法という言葉が、22、23、24節に3度も繰り返されていることは、先に申し上げました。これには意味があります。幼子イエス様が何もかも律法の命ずるままに従がい、律法が求めるままに応答されたことを明らかにしています。

恵みと福音の中で生かされている私たちは、うっかりすると、律法が最初から無益なものであったかのように考えがちです。今日では、律法主義と言えば悪口です“頑なな分からず屋”といった侮蔑を込めた表現ですが、それは公平を欠いています。

律法は、神から与えられた生きる基準です。悪いものではなく聖なるものです。神が人間を計る聖なる物差しのようなものです。人間は、罪深いので、それに応えることができません。それで、律法を忌み嫌い敬遠します。それは「律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」(ガラテヤ2:16)

イエス様は律法の下に生まれ、その要求をことごとく満たされました。イエス様の生涯は、律法に従った一歩を踏み出すことにより、律法の要求が正しいことを認めています。そして、律法が目指していたもの、しかも人間が決して到達する事の出来ないものを、イエス様は、完全な従順によって勝ち取り、律法の要求を終わらせました。

II. 律法から解放されてキリストの下に移される

今日、キリスト教会では割礼を行いませんが、信仰の告白に基づいて洗礼式を行います。洗礼式の意義は、単なる入会式ではありません。

イエス様の最後の命令は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」でした。「御名によって」とは、直訳すれば「御名の中へ」即ち、御名と一つになることです。

従がって、洗礼の意義は、割礼においてアブラハムに与えられた契約の祝福と基本的に同じです。割礼は「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」(創世記17:7)保障でした。洗礼も、神さまと私たちが一つとなる契約です(黙示録21:7)

自己決定できない幼児達も、親の責任において割礼による契約を結んだのですから、私自身は、今日でも幼児洗礼はきわめて大切だと考えています。

パウロは「イエス・キリストにある(或いは、よって)」と言う表現を大切にし、信仰の真理を語るあらゆる場面で強調します。これは、私たちがイエス・キリストと一つにされている事実に基づいています。

聖書には放蕩息子の帰還(ルカ15:11-24)や、接ぎ木の比喩(ローマ11-16-24)が用いられていますが、それは、私たちが救い主と一つの名、一つのいのちに生かされる必要を教えています。

信仰によってイエス・キリストに結びつく者は、イエス様と一緒に律法の下に置かれ、主の贖いによって、律法の要求を満たし、自由にされます。そこには、最早、後ろめたいことは何一つありません。

パウロは、誠実に自分の内面の罪と向き合い「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と苦悩しました。

しかし、彼は、キリスト信仰による確信を得ると、大胆不敵な確信を述べます「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します・・・この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです・・・今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ7:24-8:1)と。

パウロは、コリント教会に対しても「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(II5:17)と、過去の罪から解放されていることを明らかにしています。

もう一度繰り返し申し上げます。イエス・キリストが律法に身を委ねたのは、私たちに代わって律法の要求を満たすためでした。その結果、私たちと一つになるためです。私たちの確信と慰めは、インマヌエル「神、我らと共にいます」


私たちキリスト者が、主の御心を尋ね、主に従うのは、主に置き去りにされないためです。時々、道路に座り込んでお母さんの忍耐を試している幼子がいます。親子の綱引き、駆け引きのようです。母親が後ろを振り返らずに前に歩み出すと、子どもは悔しそうに半べそかきながらもついて行きます。置いていかれては大変ですから。

パウロは、愛弟子テモテを激励して「もし私たちが、彼と共に死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(IIテモテ2:11-13)と書き送りました。要約するなら、イエス様から片時も離れるなと言うことです。

私たちの心は、主イエスと一つであることを喜び感謝しているでしょうか。