ルカの福音書説教

小林和夫師
第3回

3章-2:悔い改めに相応しい実

ルカ福音書3章7〜14節

バプテスマのヨハネは、ヨルダン川の辺・ユダヤの荒野に出現して、人々に罪の悔い改めを促しました。これは、久しぶりにユダヤの地に響き亘った神の声でした。

ヨハネの言葉は台風のように激しく、ユダヤの地を吹き抜けました。この烈風は、ユダの地に住む人々に、生命新生の希望を告げるものでした。

旧約聖書の最後にあるマラキ書から、バプテスマのヨハネが登場するまで、およそ400年でした。この400年間を中間時代と呼んでいます。預言者時代とイエス様の時代の中間という意味です。この時代は、誇り高いユダヤ民族にとって敗北と屈辱の歴史でした。さらに彼らは、神の語りかけが絶えて久しいことを認めていました。

神が沈黙された時代です。ユダヤ人は、神に捨てられたと思っていました。しかし、神は、400年の沈黙を破って、預言者ヨハネを遣わして語り始めました。

ヨハネの時代、ユダヤはローマ帝国の支配下に置かれて不幸な時代でした。しかし、逆境は人々の心を奮い立たせ、正しい所へ引き戻す契機となることがあります。それ故、困難な日々を迎えた時、失望落胆することはありません。

イエス様は、我ままな息子が財産を使い果たし、身を持ち崩した例え話を語っています。その男は落ちる所まで落ちて、本心に立ち返り再起のきっかけを掴みました。

ユダヤの民衆も、抑圧され、誇りを奪われ、心を神に向け始めました。聖書には「民衆は、救い主を待ち望んでいた」とあります。ローマの歴史家も“民衆の間に救いを待ち望む機運が高まっていた”と、証言しています。

ヨハネの噂を耳にした者たちは“もしかすると、この方がキリストではあるまいか”と期待して、ヨハネのもとへ陸続として集まって来ました。マタイは「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」(3:5-6)と、記述しています。

この記述は、それまで、人々にとって救いと呼べるものが無かったことを裏付け、併せて、ヨハネに対する期待感がいかに大きかったかを伺わせます。

日本でも、終戦直後には、教会に人々があふれた時期があったそうです。都会の教会では、宣伝広告の必要はなく、呼びかけなくても人々が集まって来たと聞いたことがあります。人々は、敗戦の苦悩の中で、新しいものに期待したのでしょう。

けれども、やがて潮が引くように、人々は教会から去って行きました。今日では、一人の新しい方を教会にお招きするのに大変な苦労をします。牧師会などでも、教会の催し物に人が何人集まったかということが、大きな関心事になっています。

I. 自分自身を知れ

ヨハネは、自分の所へ集まって来た人々の数を見ても、有頂天になったり、迎合したりはしません。彼が集まって来た群衆に放った第一声は「マムシのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と、峻厳なものでした。

マムシが人の命を奪う毒ヘビであることはよく知られています(詩篇140:3)ヨハネは、人が、まむしのように猛毒を心に隠し持っていると指摘しました。他人の幸せを妬んだり、踏みにじったり、奪い取ったり、破壊していく人間の罪の現実は、まさしく「マムシのすえ」と、呼ばれても抗弁できないものです。

50年ほど前のことです。北海道に一人の非行少年がおりました。父親はアル中、母親はヒステリー。彼は中学生の時から、他人のものを盗む(奪う)のを常習として、男性教師にも暴行を加える札付きのワルでした。誰にも愛されず、相手にもされませんでした。

その彼が、ある日教会の特別集会にやって来ました。その日、彼は自分が罪人であることを認め、心から悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じました。

それまで彼は、貧しい自分の家と両親を恥じ、劣等感を抱いて世間を憎み、理由もないのに他人に挑みかかっては問題を起してきました。彼の心は虚しさを抱えていましたが、周囲の人は外見で判断しますから、誰も彼の内心の苦しみを理解できず、彼を敬遠しました。そして、慰められ癒されなければならない心は、ますます悪に陥ったのです。

彼が初めて聞いた説教題は「マムシのすえ」でした。彼は初めてキリスト教の説教を聞いたのですが「マムシのすえ」とは自分の事だと、分かったそうです。彼は、勇気を持って自分を正直に見つめ、罪を赦して下さるイエス・キリストに望みを託しました。そして、見事に生まれ変わりました。彼は、学校教育は受けませんでしたが、潜在能力があり、独力で教会の奏楽者となり、私の代りに説教もするようになりました。

人はみな、この少年ほど典型的ではなくても、マムシの毒を持っています。ある日の牧師館の雑談です。一人の娘さんが“自分の父親の頭を蹴っ飛ばしたかった”ともらしました。すると、別の青年が“俺は、親父を殺したかった”と打ち明けました。勿論、父親にも問題があったのでしょうが、彼らが罪を犯さずに済んだのは、キリストに出会い自分を知ったからです。自分の本当の姿を知ることが大切です。難しく考えることはありません。自分の内面の真実を率直に認めることです。

私たちの多くは、多少の教育を受けて知恵を与えられ、世間体を気にしながら大きな失敗もせずに生活をしています。しかし、それで神の前に義とされるわけではありません。もし心の中に憎しみや殺意を抱かせる罪が内在しているなら、時限爆弾を抱えているようなものです。追い詰められると暴発します「マムシのすえ」とは、他ならぬ私たちのことです。罪を軽々しく扱ってはなりません。神の赦しの中に憩う道を見出してください。

II. 誇りを捨て、弁解をやめよ

人は、自分の中にマムシの毒のような猛毒を持っていることを否定することはできません。正直で率直な人は、その事実を認めるでしょう。けれども、悔い改めをするほど潔くないのはなぜでしょうか。

人が罪を考えるとき、いつも相対的に考えます。自分を他人と比べて“誰それよりはましだ”とか“この程度のことは誰でもやっている”などと、弁解に明け暮れます。しかし“他人よりましだ”と言ってみても、自分の罪が消え去るわけではありません。

ユダヤ人には、神に選ばれた民族という誇りがありました。その誇りに胡坐をかいて、自分自身の罪と正面から対決する事を疎んじてきました。彼らは事あるごとに「われわれの先祖はアブラハムだ」と、うそぶいてきたものです。

確かに、アブラハムは、ユダヤ民族が信仰の父として誇るに足り得る人でした。そこから、彼らの間に「自分たちは神に選ばれたアブラハムの子孫だ」という傲慢な意識が育ちました。彼らは、不信仰で罪深い生活をしているにも拘わらず、他人をさげすみ、自分たちのルーツに寄り掛かかって虚しく誇って来ました。

イエス様はこのような人々に「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい」(ヨハネ8:39)と、厳しく勧告しました。このようなユダヤ人の自負と偏見は、決してユダヤ人だけのものではありません。

私たちの中にも、同じようなひそかな自負はないでしょうか。それを持ち続ける限り、潔く罪を悔い改めることはできません。家柄、学歴、その他、何でも同じ事ですが、それらはみな自己欺瞞の種にすぎません。

ヨハネは「われわれの先祖はアブラハムだ」などと心の中で言い始めてはいけませんと指摘しました。彼は、路傍の石を指して「神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」と宣言しています。これでは、ユダヤ人の選民意識も形なしです。しかし、このように公平な見解が、異邦人の希望に道を開くのです。

III. 悔い改めの実を結ぶ

ヨハネの厳しい言葉は、群衆の肺腑を貫いたようです。幸いなのは、この時、聴衆が逃げ腰にならなかったことです。彼らは“このままで良い”と、思ってはいませんでした。彼らは、ヨハネに真剣に尋ねます「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう」と。これに対するヨハネの答えは、きわめて簡潔で具体的です。

民衆には「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい」と、他人への思いやりを促しました。

取税人には「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません」と公正を求めます。

兵士には「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい」と、至極当然の事を命じました。

彼らは、心を変え生活を変えることが求められましたが、いずれも、一大決心をしなければならないほどのことではありません。本気で決意すれば、誰にでもできる程度の指針です。難しいことは要求されていません。当たり前の事が求められただけです。

私たちも同意します。裸になって衣服を与えるのではなく、税を割り引いて自己犠牲を払うのでもなく、給与を放棄せよ・・・と、命じられたのでもありません。親切で正直に威張らずに生活しなさいと、教えられたのです。

マムシの子らは、悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、死すべきものです。繰り返しますが、ヨハネは、逆立ちしてもできそうもない高度な要求をつきつけたわけではありません。ですから、私たちの日常生活も、この勧告に応える責任があります。慈しみと公正と社会における正義の問題です。

取税人程ではないが、兵士ほどではないとしても、我々は自分の立場と特権を私する傾向を持つ者です。外務省の役人が外交機密費を湯水のように使い、多くの役人たちが既得権にしがみ付いて改めようとしません。確かに権力やチャンスには、人の心を堕落させる魔力が潜んでいるようですから、他人事ではありません。

ヨハネは、真理を明解に語りました。彼の言葉が人々を救うのではありません。ヨハネは16節で、自分自身が待ち望んでいる救い主の到来を指し示し、人々をイエス様に導きました。

ヨハネの教えは納得できても、それに応えるのは、罪深い私たちには容易ではありません。それでは、もう一度“私たちは、どうすればよいのでしょう”

パウロは、ピリピの牢獄の看守が「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねた時「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」(使徒16:31)と応じました。

ここで言われた「救われるためには、何をしなければなりませんか」という意味は“どうしたら、あなたのようになれますか”という憧れの表現だと思います。応えは一つです「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」

信仰は希望を与え、勇気を与え、生きる力を与えて、悔い改めの実を結ばせてくれます。