ルカの福音書説教

小林和夫師
第23回

7章-4:感動・関心を失った時代

ルカ福音書7章24〜35節

本日の聖句には、少し分かりにくいところがありますので注意深くお聞きください。イエス様は、バプテスマのヨハネの使いを送り返して後、ヨハネの偉大さを評価しつつも、更にまさる神の国の祝福があることを明らかにされました。その祝福とは、世にいう功績はなくても、神を信じる者がいただける神の恵みのことです。

いつの時代にも、人間の不信仰には理解し難いものがあります。今日は、イエス様の言葉から、私たちの信仰の妨げ、信仰を変節させるものは何かを学びたいと思います。

I. 賞賛に価するヨハネ

バプテスマのヨハネは、一世を風靡した高潔な預言者でした。彼はヨルダン川の辺に現れ、神の国の福音を宣べ伝え始めました。すると、ヨハネの名声を慕う人々は、ユダヤ全土から彼のもとへ陸続として集まって来ました。

これらの人々に対して、ヨハネは迎合することなく、その対応は多少荒っぽいものでした。ヨハネは彼らに向かい「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(3:7-8)と、手厳しい扱いをしています。群衆が直ちに悔い改めるよう、ヨハネは決断を迫りました。

ヨハネの所へ集まって来た群衆には、霊的な飢え渇きがありました。彼らは“新しいもの見たさ”で集まった、興味本位の野次馬ではありません。イエス様もそれはご存じでした「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか・・・柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、贅沢に暮らしている人たちなら宮殿にいます・・・・何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり」と、言われました。

バプテスマのヨハネは、正真正銘の預言者でした。預言者であることを除けば、彼に特別な魅力は感じられません(ヨハネ10:41)けれども、彼こそ、紛れもなく神から遣わされた預言者でした。イエス様も彼を賞賛しています「預言者よりもすぐれた者です・・・あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりも優れた人は、ひとりもいません」と、最大級の賛辞を呈しています。

多くの預言者たちが、歴史にその名と言葉や足跡を残してきました。しかし、ヨハネの役割は、ある意味で別格です。他の預言者たちは、やがて、メシヤが出現することを語りました。ところが、ヨハネはイエス様を指さして、この方こそ「世の罪を取り除く神の小羊」と、証言しています。換言すると、イエス様に一番近い預言者だったと言えます(前回は、ヨハネの弱さにも触れた)

その上で、イエス様が言われた御言葉「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」これを、心に銘記すべきです。

ヨハネは、その信仰や人格的な資質、訓練した諸々の徳によって、優れた者と評価されました。それでは、私たち神の国に属する者の真価は、何によって判断されるのでしょう。私たちの為に払われた代価(犠牲)によります。即ち、私たちに代わって十字架で死なれた神の御子イエス・キリストのいのちに等しいのです。

イエス様のみ言葉は、ヨハネを貶めるものではありません。ヨハネが先駆者となり、イエス様に引き継がれて完成した救いの恵みが、絶大なことを物語っているのです。ヨハネの貢献がなければ、もし、彼が先駆者として「主の道」を整えなかったならば、人々がイエス様の恵みに与るのは遅れたことでしょう。

II. 二分された人々

ヨハネの言葉を聞いた人々がみな、神に導かれて悔い改めたわけではありません。イエス様は「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分達に対する御心を拒みました」と指摘しています(マタイ3:7)ヨハネの聴衆は、彼の言葉に聞き従う者と、拒絶する者とに二分されました。

同じ言葉でも、聞く人々の間には理解の相違が生じます。従って、その応答も異なります。聴衆が置かれた個人的な境遇や環境、性格などにも相違があります。

時には、その日の“虫の居所”も様々ですから、やむを得ません。ですから、神の言葉への応答は、よくよく心しなければなりません。

福音が誤解されると、聴衆の間に取り返しのつかないほど決定的な違いを生じることがあります。信じる者と信じない者、悔い改める者と自己を正当化する者、神を受け入れる者と神を拒む者です。

個々の場合としては、それぞれの弁明があるでしょう。しかし、結果として、両者の間には越えることのできない淵が横たわることになります。赦された者と自責の念に苦しむ者、喜びと感謝に支えられて希望を抱く者と、鬱々として楽しまない者、永遠のいのちに迎え入れられる者と自らそれを拒む者です。

III. 何が妨げとなっているのか

信仰と不信仰、希望と絶望、天と地ほども差のある結果は、何処から生じるのでしょうか。イエス様はこの事実を説明するのに、市場や街角で見かける子どもたちの遊びの風景から説明されました。

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった」この言い草は、大人の屁理屈のように聞こえますが、実は、子どもたちの日常の遊び“結婚式ごっこ”や“葬式ごっこ”を連想させるものです。

最近は、子供たちが群がって遊んでいる姿をあまり見かけません。子どもたちが大勢集まるのは、野球やサッカーなど、監督やコーチに指導されているスポーツをするグループです。また、学習塾やそろばん塾、お絵かき教室などもあります。そこでは、リーダーや教師の指示のもとで、全員が参加して課題を行います。

私が子どもだった頃は、子どもたちが大勢集まってはいても、遊びは三々五々という光景をよく見かけました。

だれかが“結婚式ごっこする者この指とまれ”と、呼びかけます。すると、直ぐにその輪に入って歌い出したり踊り出したりする子がいます。しかし、必ずしも、みんなが賛同するわけではありません。参加者が少なくてゲームが成立しないこともあります。

“葬式ごっこをしよう”と、言ってみても同じです。直ぐに反応し、早速泣いてみせる子もいます。興味を持たない子もいます。子どもたちの中にも、自分のペースでなければ参加できない子がいます。それにも、個々の事情はありますが、ただのわがままな場合もあります。その結果、傍観者に留まる事にもなります。イエス様は、ヨハネとご自分に向けられた民衆の関心とパリサイ人らの無関心を、子どもの遊ぶ姿で巧みに描き出されました。

イエス様は、次のように指摘しています「バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると『あれは悪霊につかれている』と、あなたがたは言う。人の子が来て、食べもし、飲みもすると『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです」主はこのように語り、無感動・無関心な傍観者たちを戒めました。

パリサイ人たちの目から見ると“ヨハネは、禁欲的でついていけない。イエスは、社会の風習や慣例を弁えない異端者だ”と、言うことになるのでしょう。

確かに、ヨハネの食事は、イナゴと野密という粗食でした(マタイ3:4)荒れ野に身を置いた彼の周辺には、それしかなかったのです。だれも、ヨハネの所へ焼きたてのパンや温かいスープを届けなかったので、彼は粗食に甘んじたのです。ですから、必ずしも“ヨハネは禁欲主義者だ”と、言う批判は当たりません。

イエス様は、人々が軽蔑した取税人マタイやザアカイの友となり、彼らの宴席にも躊躇なく参加しました。それは、パリサイ人が勘ぐるような飲み食い目当てではありません「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来た」(5:31-32)と言われます。

イエス様は差別偏見の垣根を越え、心傷ついた人々に近づきました。それ故、多くの場合、主イエスも弟子たちも、食事をとる暇もないほど多忙を極めていました。

ヨハネの事もイエス様のことも、少しも理解しないままで簡単に裁いてしまう彼らの判断基準は何でしょう。一言でいうなら、思い込みを根拠にするからです。概して、パリサイ人は、自他共に認めるイスラエルの名士ですから、思い上がりが甚だしかったようです。彼らの傲慢は、彼らの無知の温床でした(彼らの中にも、ニコデモやアリマタヤのヨセフのように敬虔な人たちがいたことは銘記する)

主イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(9:23-25)と、仰いました。

多少の重荷なら負うことは可能ですが、私たちに取って捨てがたいのは「自分自身」です。自分の誇り、自分の知恵と経験から来る判断、これが捨てがたいのです。

それを捨てると、自分が自分ではなくなると考える人もいます。確かにその通りです。しかし、自分とは、とても捨てられないほど大層なものでしょうか。多くの人々は、自分から逃げ出したいと考えているのではありませんか。

イエス様は、ユダヤ社会を代表する高潔なニコデモに「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)と、言われました。人は、新しく生まれ変わることが必要です。私たちが脱ぎ捨てる事を求められているのは、自己中心の罪に汚れた“古い自分”です。古い自分を脱ぎ捨てた時、私たちは新しい自分に生まれ変わります。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Iコリント5:17)これは、頑固なユダヤ主義者からキリストの弟子に生まれ変わったパウロの凱歌です。

イエス様が憂えた「この時代の人々」の傾向は、今日も相変わらず無感動・無関心です。主よ。あわれんでください。