ルカの福音書説教

小林和夫師
第1回

1章-1:ルカの福音書の性格

ルカ福音書1章1〜4節

礼拝説教のテキストに、本日からルカの福音書を取り上げます。今日は第一回目ですから、ルカ福音書を概観しておきます。表題通り、この福音書は、パウロの友人ルカが書いたイエス・キリストの物語です。先に学んだ「使徒の働き」もルカの作品です。先ず最初に、私たちは、著者ルカ自身について知り得ることを数え上げてみたいと思います。

I. 著者ルカについて

聖書は神の言葉ですが、それを執筆したのは様々な人々でした。その中には、預言者、王、学者、役人、農夫、漁師などがおります。彼らの共通性は、みなユダヤ人だったことです。その中で、唯一人の例外がルカでした。ルカは、ユダヤ人の目から見れば異邦人でした。

この事実は、キリスト教がユダヤ教の中から生まれ、ユダヤ人の弟子達によって継承されて全世界に広がっていくために、計り知れない意味を持っています。

ご存知のように、主イエスの福音書は4つあります。その中で「マタイ・マルコ・ルカ」は、一口に共観福音書と呼ばれていますが、注意深く読むと、ルカの福音書が持つかけがえのない価値(メッセージ)を見いだすことができます。ギリシャ語の学者は、ルカが文体だけでなく、用語にも心を配っていると指摘しています。

ルカは、パウロの友人であり医者でした(コロサイ4:1)ルカは、健康の優れないパウロの主治医として、パウロの伝道旅行にも同伴しました。「使徒の働き」に見られる「私たち」という表現は、著者ルカが、その時パウロと同行していたことの証拠です。

例えば「パウロがこの幻を見たとき、私たちは、ただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた」(使徒16:10-11)とあります(20:14、21:1、27:1)

パウロにとって、ルカは身体の医者だけでなく共にいる慰めでした。パウロは、殉教死する直前、ローマの獄中から愛弟子テモテに書いています「あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです」(テモテ4:9-11)と。困難に遭遇すると、逃げ出す者もいますが、踏み止まる者もいます。ルカは、最晩年のパウロを慰め支えた数少ない人々の一人でした。

ルカは、歴史家でもありました。彼の文章のスタイルが(ルカ2:1、3:1)それを裏付けています。彼は冒頭に「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います」と記しています。聖書が神の言葉であり、聖霊の霊感に導かれるということは、歴史家ルカの調査や理性的な考察と少しも矛盾するものではありません。

加えて、伝承は、ルカが画家でもあったと伝えています。スペインには、ルカが描いたと言われるマリヤの肖像画があるそうです。残念ながら見る事はできませんでした。ルカが画家であったか否かは断定できません。しかし、ルカが福音書に登場する人々を生き生きと描写していることは確かです(7:11-16、18:35-43などは代表例)例えばマリヤへの受胎告知の場面、絵画としてはレオナルド・ダ・ビンチが名声を博していますが、福音書の足元にも及びません。

ルカは、いわゆるマルチタレントでした。神は彼に多くの賜物を授けられたようです。そして、彼もまた、その恵みを存分に活用して、救い主イエス・キリストを私たちに明らかに示してくれました。栄光は神のものですが、神の恵みに応えることは幸いなことです。

II. 執筆の事情

ルカは、福音書の冒頭で「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みております」と書いています。

ルカは、すでに他の福音書が存在していたことを知っていました。けれども、それで十分とは考えなかったようです。すでに述べたように、ユダヤ人の弟子達が書いたものには、異邦人の視点が欠けていました。それを補うことに責任と使命を感じたのでしょう。

ルカが「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います」と判断したのは、福音書間の調和に役立っています。イエス様の行動の時間的な理解もルカによって大いに助けられています。

ルカは、この福音書を「尊敬するテオピロ殿(テオピロ閣下、口語訳)」に書き送っています。その意図は「すでに教えを受けられた事柄が正確な事実であることを、よくわかっていただきたい」という一点にありました。

私たちは、テオピロについて、彼が身分の高い役人だったことしか知ることができません。けれども「すでに教えを受けて」いたことは明らかです。ルカは、テオピロに信仰の確信を与えるために、福音書と使徒の働きを書き送ったのです。ちなみに、テオピロとは「神の友」という意味です。この福音書を読む者は正確な事実に出会います。その事実を受け入れる者は、まさしく神の友となることができます。個人的な一書簡が、後に全世界への福音になるとは、ルカ自身が夢想もしなかったことでしょう。栄光が主にありますように。

III. 執筆の事情

細かな点は、今後説教を進めながら明らかにしていきますが、みなさんがルカの福音書を読むときの助けになればと思い、この書に際だっていることを概略申し上げます。

1. 視野の広さ

マタイは、ユダヤ人読者を意識して書いています。ですから、旧約聖書が成就している事実を強調しています(マタイ1:22、2:5、15、23)救い主イエス・キリストの出身についても、信仰の父アブラハムから語りだします(1:1)

しかし、ルカは、イエス様の系図を記録した時(3:23-38)神が創造した人祖アダムにまでさかのぼっています。ここまで遡ると、アブラハムもダビデも霞んできます。イエス様の福音の前には、ユダヤ人も異邦人もないと言うことでしょう。

2. 祈りについて

ルカは、重要な転機に臨んでおられるイエス様を、祈る姿で描き出しています。

  • 主がバプテスマを受けられた時(3:21)がそうでした。
  • 主が十二弟子を選ぶに先立って、徹夜の祈りがなされたことを記録しています(6:12)
  • 主は十字架の死を弟子達に予告するに先だち、祈られました(9:18)
  • 変貌山で、ペテロにご自分の神秘を明かされた折りにも、祈りが先行しています(9:29)
  • ペテロが試練の日に信仰を失わないようにと執り成しを約されました(22:32)
  • ペテロが試練の日に信仰を失わないようにと執り成しを約されました(22:32)

また、たとえ話の中でも繰り返し祈ることを教えています(11:5-13、18:1-14)ルカは祈る神の子イエス様を描写して、祈りこそは、すべての人に与えられた神の恵みの手段ですと明らかにしているかのようです。

3. 女性への配慮

ユダヤ人男性は、朝起きると「異邦人に生まれなかったこと、奴隷でないこと、女性に生まれなかったこと」を感謝したと言われます。当時のイスラエル女性の立場がどんなに卑しめられていたかが伺えます。

ルカは、そんな時代の価値観を承知の上で、イエス・キリストがどんなに慈しみ深く女性を扱われたかを強調しています。キリストの福音は、女性を恵みの光のもとに引き出してくれました。

マタイは、降誕の物語をヨセフや博士の視点から書いています。しかし、ルカは、重要な役割を担う者として、マリヤやエリサベツを登場させています。彼女たちは、神の御前で、輝くばかりに美しく描き出されています(ダビンチの受胎告知など足元にも及びません)息子を失ったナインの寡婦を憐れみ、マリヤとマルタを懇ろに導かれた主は、ほむべきかな。

4. 疎外されていた人々も

ルカは、社会的に疎外されていた人々にも温かい眼差しを向けています。ユダヤ人から蔑視されていたサマリヤ人についても、隔てがありません「良きサマリヤ人」のたとえ話は、ルカだけが書き留めています(10:30-37)また、十人のライ病人が癒された時、感謝のため戻って来のは、サマリヤ人ただ一人だったと殊更に記録しています(17:11-18)

また、自己義認していたパリサイ人よりも、罪を恥て苦悩する取税人を受け入れる主イエスを示し(18:9-14)直後に、取税人ザアカイの物語を記録しています(19:1-10)ザアカイは、金持ちで権力も握っていましたが、愛されず軽蔑され孤独な男でした。しかし、ルカの視点はパウロと同じです。

パウロは「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント5:17)と書いています。ルカもその福音書を、重荷を負って苦労している者たちに提示しています。彼自身が異邦人であったから、偏見と差別のもとにある者の苦しみを誰よりも良く知っていたのではありませんか。これは、ルカの独断や偏見ではありません。

その昔、預言者イザヤは、メシヤの到来について次のように書きました「苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:1-2)と。

マタイもマルコもヨハネもそれぞれ素晴らしい神の言葉です。しかし、ルカの福音書には「ああ、恵み。我にさえ及べり」という感動が溢れています。