ルカの福音書説教

小林和夫師
第34回

8章-2:神の言葉に聞く

ルカ福音書8章4〜15節

福音書の著者ルカは、8章をイエス様の活動の分岐点としているようです。なぜ、そのような事が言えるのかをお話します。

イエス様の3年余りの宣教活動は、実際には、北のガリラヤと南のユダを何度も往復した筈です。それを物語るのはヨハネの福音書です。ヨハネは、ユダヤ人の祭があるたびに、イエス様と弟子たちがガリラヤからエルサレムに上京されたことを詳細に伝えています(2:13、5:1、6:4、7:2、10:22、12:1、太字は過ぎ越しの祭)

ルカは、12才のイエス様が、過ぎ越しの祭にエルサレムに上京した物語を伝えていますが、それ以外のエルサレム詣には沈黙しています。そして、十字架に架かられるためにエルサレムに上られた最後の過ぎ越しの祭りだけを記しています。ですから、ルカの福音書を読むと、成人したイエス様は、唯一度だけエルサレムに上られた印象があります。ここに、ルカ福音書特有のメッセージが込められています。ルカは8章を分岐点とし、以後はひたすら「エルサレムに向かうイエス・キリスト」というテーマで記録しています。

8章1節の「イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた」という言葉は、キリストの福音がやがて「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」(使徒1:8)伝えられるために、イエス様がエルサレムを目指したことを告げます。これは、ユリウス・カイザルが“賽は投げられた“と言ってルビコン川を渡り、ひたすらローマを目指した故事を思い出させてくれます。最早、後戻りはできません。

ルカが「種蒔きのたとえ」をここに位置づけているのには理由があります。何故なら、主イエスは「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」(ルカ13:33)と言われます。イエス様と福音は、少しも停滞することなく前進します。これは、神の言葉の種まきです。あとは、語られた神の言葉をいかに聞くかが問われます。

種まきには“種と、種を蒔く者と、種を受け止める畑”の関係がありますが、イエス様はここで、“種を受け止める畑”即ち、神の言葉を聞く者の受け止め方に、注意を促しています。

イエス様の例え話は「ぶどう酒と皮袋」や「衣服と継ぎ切れ」の場合と同様に、きわめて身近な事柄から説き起こして、霊的教訓へと導きます。例え話の極意は、聞く者に“おやっ、本当かな、調べてみよう”と言う驚き、ちょっぴり疑念・旺盛な探求心をかき立てることにあると言われます。

I. 種は神の言葉です

明らかな事から始めましょう。イエス様は「種は神の言葉です」と明解に語りだしました。種の生命力には計り知れないものがあります“大賀蓮”の名をご存じでしょう。大賀博士が発見した蓮です。その種が3000年ぶりに花を咲かせたというから驚きです。その間、ハスの種は飲まず食わずでした。冬眠などとは比較になりません。

実に、種は良い地に巡り合えれば、30倍、60倍、100倍の実を結ぶことが可能です。一見しただけでは、砂粒と区別もつかない種があります。専門家を悩ます種も無数にあります。そんな小さな草花の種も、ひとたび所を得れば、色も香りも姿形も異なる花を咲かせます。あの小さな種の中に、創造者は各々固有の生命を与えてくださいました。

イエス様が「種は神の言葉です」と語られたのは、神の言葉が生命力を宿し力強く働くからです。モーセはさすがでした。神の言葉の生命力の偉大さを熟知していました。彼は、約束の地に入るイスラエルに向かって「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)と教えました。

預言者イザヤも「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(55:11)と、神の言葉を代弁しました。

新約聖書も「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する」(ヘブル4:12)と語り「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」(ヤコブ1:21)と教えます。

預言者たちの目には、神の言葉は素晴らしい可能性に満ちていますが、不信仰は、神の言葉の力を虚しくします。

種の生命力は実を結ぶことにあります。神の言葉も人の心に豊かな実を結ぶことを目的としています。神の言葉の確かさは明白です。この神の言葉を、正しく語ることと謙虚に聞くことが人に与えられた課題です。

II. 神の言葉を語る者

この例え話は、種を蒔く者については何も論じていません。蒔く人は与えられた種をあらゆるチャンスにあらゆる場所に蒔き散らしているようです。ここでは“蒔き方が悪かった。時期が適当でなかった。場所の選定が適当でなかった”という事は不問です。

それは“蒔く者(語る者)に責任がない”ということではありません。ここでは、み言葉を語る者が誠実に語り続けることは当然であり、前提になっています。使徒パウロも「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(IIテモテ4:2)と、愛弟子テモテに命じています。

III. 聞く者の責任

このたとえ話の最大の関心事は畑の問題です。ここでは、畑が神の言葉を聞く者の心の状態を表しているのは明らかです。イエス様自身の解説に耳を傾けてみましょう。

1.道端に落ちた種

この種は、人に踏まれ傷つき損なわれ、食べ物を捜し求めている空の鳥に発見されて食べられてしまいます。根を下ろすいとまもありません。

ある人々は、神の言葉に対して踏み固めた道路のように冷やかで無関心です。福音を聞くチャンスがあっても、自分には関係もなければ必要もないと考えて拒絶します。神をあなどり、真理の言葉を受け入れません。人は聞き従うべき時に心を頑なにするとチャンスを失います。

イエス様は「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです」と、解き明かされました。

悪魔は常に虎視眈々としています。チャンスを逃しません。ですから「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしては」なりません(ヘブル4:7)と言われています「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)

2.岩の上に落ちた種

家を建てる時に岩を土台とするのは正解ですが、種に石地は相応しくありません「岩の上」とは、良く耕されていない土の薄い石地です。芽は直ぐに出ても、深く根を張ることはできません。厳しい猛暑が続くと、水不足で枯れてしまいます。これについて、イエス様は「聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです」と言われました。

ある人々は、熱しやすく冷めやすいものです。感激し、涙さえ流して受け入れるのですが、心と生活の中心に神の言葉を深く位置づけることをしません。教会の交わりや雰囲気は好きですが、み言葉をしっかりと学んで自分を養うことを億劫がります。ですから、思いがけない試練がくると「こんな筈ではなかった」と身を引きます。

詩篇の記者は「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71,72)と歌っています。信仰の真価は苦難の時にこそ発揮されるものです。苦しみの日に勇気や希望を持てない信仰は無益ではありませんか。

3.いばらの真ん中に落ちた種

ここでは、根が焼かれる事はありませんが、雑草の逞しい成長力に圧倒されます。結局、栄養不足で実を結ぶことができず、見かけ倒しに終わります。イエス様はこれについて「みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです」と、説明されました。

これは、世の心遣いや快楽に心ひかれ、優柔不断というか、神の言葉への信頼に徹しきれない状態を指しているのでしょう。主は「まず、神の国と神の義とを求めよ」(マタイ6:33)と勧告されました。私たちは、限られた人生を生きているのですから、目先の事だけに心を奪われてはなりません。永遠の優先順位を誤ってはなりません。

4.良い地に落ちた種

最後に、実り豊かな良い地が取り上げられています。深く耕され、雑草が取り除かれ、肥料も十分に与えられた畑では、当然のことながら種は芽生えます。根をしっかりと張り、時が来ると花を咲かせ実を結びます。これこそ、良く手をかけた畑です。

畑の作物も、丹誠込めた人の作物と片手間にする人の作物には、明らかな違いが生じます。なにごとでも、有益なことを達成するのに安易な方法などある筈がありません。自然界には、猛暑もあれば冷害もあります。雨の多い年もあれば干ばつもあります。気象条件は毎年変わります。それでも気配りされた畑は、収穫をもたらせます。

大地も人の心も同じです。人は、このように「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」ことができます。

私たちの先人は経験から学んできたのでしょう“患難、汝を玉にする”と、言い伝えてきました。イスラエルでも「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71,72)と、神をほめたたえます。

ヘブル書の記者も「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(10:36)と、励ましています。

生活の文化は侮れません。文化は人間が作り出しました。それは、人間のためにあるものです。それが、いつの間にか立場が逆転して、人間の性格まで支配するようになります。たとえば、昨今はインスタント時代です。ですから、お店は客を待たせないのがサービスだと考えます。便利と言えば便利ですが、こうして私たちの性格は、いつしか、待たされたり忍耐を求められることが苦手になりました。今や忍耐と言う言葉は不人気そのものです。

時代は変わります。ファスト・フード一辺倒かと思っていたら、近頃はスロー・フードという言葉を聞きます。私もコーヒーを豆から引いて飲むことにしました。コーヒー通ではありませんから、味に拘っているわけではありません。私は性来せっかちな人間ですから、少し待つ時間を大切にしたいと考えました。インスタントコーヒーも美味しく戴きます。豆を焙煎するところからやる友人もいますが、そんな趣味はありません。