ルカの福音書説教

小林和夫師
第36回

8章-4:風と荒波を叱る

ルカ福音書8章22〜25節

本日の聖句は、イエス様が、十字架前夜の晩餐の席で弟子たちに語られた言葉を思い出させます。主は懇ろに語りかけました「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14:27)イエス様の気がかりは、弟子たちの心に潜む不安な思いでした。

平安と言えば、思い起こすのは大祭司アロンの祝福の祈りです「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」(民数記6:24)しかし、人の心から失われ易いもの、奪われやすいのも平安です。私たちは直ぐに心を騒がせます。ですから、預言者イザヤは記しました「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない』と、あなたをあわれむ主は仰せられる」(イザヤ54:10)敬愛する皆さん、平安ですか。

本日の聖句は、逃げ場のないガリラヤ湖上で、突然襲いかかってきた嵐を描いています。舟を操ることなら腕自慢の弟子たちでしたが、どうすることもできません。彼らの頼みは、熟睡しているイエス様を揺り起こすことです。呼び起されたイエス様は、風と波を静め、弟子たちを無事に目的地に向かわせて下さいました。

ことの起こりは、22節にある「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた、イエス様の言葉にあります。おそらく、これは休息をとるためだったと思います。直前の19節には「イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために傍へ近寄れなかった」とあります。この頃、主イエスの一行はどこへ行っても歓迎され、救いを求める人々に取り囲まれ、弟子たちは食事を取る暇もないほど多忙を極めていました(マルコ3:20)

別の日の事ですが、マルコの福音書は「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」という、イエス様の言葉を記録しています。その時もイエス様の一行は「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかった」(マルコ6:31) からです。主は、弟子たちにリフレッシュタイムが必要なことをご存知でした。

弟子たちが舟で対岸に向かった時、彼らは久々に世間から解放され、しばらくの休息を楽しむ筈でした。イエス様も疲れていました「舟で渡っている間に、イエスはぐっすり眠ってしまわれた」と、記されています。主の寛いだ昼寝姿の描写です。

イエス様が「神に祈りながら夜を明かされた」(6:12)ことはよく知られていますが、昼寝姿を見せて下さったのは、これが初めで最後です「人の子には枕する所もありません」(9:58)と言われた、イエス様の束の間の休息でした。イエス様の昼寝、この光景は平和そのものですが、長くは続きませんでした。天気が変わり、嵐の到来です。

I. 突然の嵐に遭遇

晴天の霹靂と申しますが「突風が湖に吹きおろして」来ました。イエス様と弟子たちの乗った小舟は、風に舞う木の葉のようにもまれたことでしょう。弟子たちは波しぶきをかぶり、旅立ちの楽しい気分は一転して、死の恐怖におののく凄まじいものとなりました。

「突風」とあります。嵐の突発性が伺えます。ガリラヤ湖の嵐のすさまじさは、今日でも取り沙汰されています。それは、ガリラヤ湖畔で生まれ育った漁師出身のペテロやヨハネを死の恐怖に追い込むほどのものでした。その激しさが想像できるでしょう。

彼らは経験的に、自分たちの手に負えないことを直感して「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と叫び、イエス様を揺り起こしたのでしょう。(因みに、ガリラヤ湖は海抜-208m、南北21km、東西12km、広さ170平方km。茨城県の霞ヶ浦は168平方km、猪苗代湖は104平方km)

この嵐は、イエス様をも巻き込もうとするほどの乱暴者でしたが、主イエスの眠りを妨げることはできませんでした。主の疲労が極度に達していたからでしょう。救い主の平安が何ものにも奪われないものの証かもしれません。

自分の経験で恐縮ですが、私は東京オリンピックが開催中に婚約が決まりました。9月にその報告をするため、北海道から神戸の恩師を訪れることにしました。折悪しく、出発前に台風が接近してきて、家内の家族、殊に良子の祖母が大変心配しました。むりもありません。婚約式の一ヵ月前です。台風のために、青函連絡船の洞爺丸が遭難して1500人以上の犠牲者を出した事故の記憶が、北海道では未だ生々しかったころです。

それでも、予定は簡単に変えられません。予定通り連絡船に乗りますと、その日、奇跡が起こりました。私は、今でも枕が替わると寝付かれないのですが、その日は、船に乗り込んで横になるとたちまち前後不覚の眠りに落ち入りました。船室係に肩を揺すられて目覚めますと、乗客の皆さんは、ほとんど下船した後でした。

青森から北陸回りで15時間かけて神戸の知人宅についたのは再び夜でした。ぐっすり眠り、翌朝、目覚めると、電柱は倒れ市中は水浸し、山陽線も不通、嵐の爪痕を見た思いでしたが、嵐の間は熟睡していました。あれは、私のことを案じて下さった方々の祈りに応えた、神様のプレゼントでした。今でも、思い出す度に感謝しています。

II. 弟子の恐怖

聖書は、この嵐の中で成すことを知らない弟子たちの恐れを伝えています。漁師たちは「板子一枚下は地獄だ」と言います。嵐の湖では逃げ場がありません。

30年前の日航機事故も痛ましいものでした。あの時は、一瞬の事故ではなく、30分位ダッチロールしたと聞いています。乗客のその間の苦しみが思いやられます。自分では一歩も動けずに死の手が近づくのですから、絶望的なパニックに陥いったことでしょう。しかし、その時でさえも、愛する家族に別れの言葉を書き残された人々もいました。

弟子たちが成し得たのは、恐怖の叫びを上げることだけですが、幸いなことに、この叫びは、イエス様に向けられました。主に向けられると、嘆きの叫びも祈りの声に代わります。

イエス様は25節で「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と、たしなめられました。ですから、弟子たちの叫びは、信仰の祈りなどとは言えません。それでも、叫びが主イエスに向けられるなら問題解決の糸口となります。

私たちの間にある嘆きや愚痴、不平、不満は、お互いをイライラさせることはありますが、少しも問題解決の助けになりません。吐き出す方は、少しは気分が晴れるかもしれませんが、受け皿になる方は耐えられません。深刻な問題と取り組んでカウンセリングをしておられる方々の労苦がしのばれます。

しかし、私たちは確信しています。如何なる嘆きも「ひとたび神に向けられると祈りになります」そして、祈りは必ず応えられます。神を知り、神と共に生き、神を呼び求めることができるとは、何と幸いなことではありませんか。

III. 主は風と荒波を叱る

弟子たちの叫びがイエス様の耳に届くと「イエスは、起き上がって、風と荒波を叱りつけられた。すると、風も波も治まり、なぎになった」と、記されています。

風と荒波。これまで、人々が絶望して引き下がらなければならなかった自然の脅威を前にして、主イエスは、み言葉の権威を帯びて立ち向かいました。これは「光あれ」と命じて世界を創造された、神の言葉の権威です。

ルカはこの出来事に続いて、イエス様の癒しのわざを記しています。悪霊に憑かれた人や、12年も病苦に苦しめられていた女性、一度は死んだ12才ほどの娘の生命を救い出された事などです。

ルカは、主イエスの言葉の権威が、自然界にも、霊界にも、病苦や死の支配の中にも及ぶことを教えているのではないでしょうか。

主イエスはこの時「あなた方の信仰はどこにあるのですか」と言われ、弟子たちをたしなめています。この言葉は“信仰があれば取り乱さなくてもよいのではないか。恐れなくてもよいのではないか”との問いかけです。たとえ弟子たちには嵐を静める力がなくても、キリストへの信頼があれば、嵐の中でも平和を保つことができる筈だと教えていませんか。神への信頼が私たちにもたらすのは平安の恵です。

キリストと共にあっても、嵐に遭遇することは避けられません。神と共に生きるキリスト者も思いがけない試練に会うことがあります。私たちの家庭や職場や自分自身の健康などに、嵐のように突然に襲いかかる苦しみがあっても意外だとたじろいではなりません。

聖書は「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」(ヘブル5:8-10)と、教えています。苦難は練達や希望へのステップです。

ですから、危機に直面したら、主イエスに叫んで下さい。嘆きも呟きも、キリストに向けられるなら祈りです「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:15-16)

主イエスが平安をもたらせて下さいます。イエス・キリストは平和の君です。

IV. この方はどういう方なのだろう

弟子たちは、イエス様を知っているつもりでした。ガリラヤ湖の畔で初めてお会いした時から、彼らはイエス様に魅了されてきました。既成の権力や秩序に大胆に立ち向かう主イエスの姿は痛快でした。イエス様が、虐げられた人々や貧しい人々、心身に障害を帯びた人々をあわれみ、その求めに答えられるお姿は、弟子たちの誇りでもありました。彼らはイエス様を敬愛し、誰よりもイエス様を知っているつもりでした。

しかし、この時、弟子たちは、イエス様が底知れない方だと知ったようです。イエス様に対する公の信仰告白は、この後、9章20節でなされますが、彼らはこの時、イエス様に無限の神を見いだすきっかけをつかんだようです。

パウロは、この主イエスを知ることにおいて、きわめて貪欲でした「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(ピリピ3:8)

イエス様は言われました「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)