ルカの福音書説教

小林和夫師
第25回

1章-2:希望の光の兆し

ルカ福音書1章5〜25節

ルカ福音書の1章は、神の御子の受肉・イエス様の降誕に先だって、周到な準備がなされていた事を語っています。まさに待降節(キリストの降誕を待ち望む、クリスマス前の4週間)に読むのに相応しい物語です。

本日の聖句は、長じて“バプテスマのヨハネ”と呼ばれた男の誕生の経緯を記しています。ここでも、ルカだけが伝えてくれる、イエス様とヨハネとの関係を知ることができます。

I. ユダヤの王ヘロデの時に

歴史家ルカは、ヨハネの誕生とそれに続くイエス・キリストの降誕が、ヘロデ王の時代であったと記しています。この言葉にどんな意味が込められているのかを考えてみます。

ヘロデはイドマヤ(エドム)人でした。彼はローマが権力闘争を繰り返していた頃、即ち、ポンペイウス、シーザー、アントニウス、オクタビアヌス(後のアウグスト皇帝)の時代に、権力と巧みに結びついて生き残り、オクタビアヌスの推薦を受けて、ローマの元老院からユダヤの王に任命されました(紀元前37年)

ヘロデには、サンヒドリン(ユダヤ人議会)を弾圧した経歴があり、自分がユダヤ人に歓迎されていない事を承知していたようです。彼は下心があり、大祭司の孫娘を妻に迎えました。これは、政治的意図をもったユダヤ人懐柔策です。

ヘロデの名は、聖書の読者には悪名高いものですが、ローマ帝国の為政者たちは、彼の政治的手腕を評価していたようです。彼は、オリンピック競技の復興に貢献し、飢饉の年には王宮の食物倉庫を民衆に開放した事もありました。彼は多くの土木事業を手がけ、その一つがイエス様時代のエルサレム神殿です。ユダヤのラビは“この神殿を見ずに、美しい建造物を見たとは言えない”と、言及しています。

ヘロデの治世の前半には、評価すべき業績がありましたが、彼は猜疑心が強く、多くの近親者を殺害しました(大祭司の孫娘であった妻を殺し、義母を殺し、妻の祖父を暗殺し、彼女が生んだ二人の我が子を殺した)

この暴挙の背後には、10人の妻の存在がありました。従って、腹違いの兄弟が多く、身辺で王位継承争いの陰謀が絶えず、先制攻撃が残忍な殺戮の繰り返しです。彼は、自分の死ぬ5日前にも長男を殺害しています。アウグスト皇帝が“ヘロデの息子であるより、ヘロデの豚のほうが安全だ”と言ったとか。イエス様の誕生の際、ベツレヘムの2歳以下の幼児を虐殺したことは、彼の狂乱した生涯の不幸な集大成でした(マタイ2章)

彼は、自分の死期が近いのを知った時、人望のあるユダヤ人を多数幽閉し、自分の葬式の日に処刑するようにと命じました。彼は、自分の死を嘆き悲しむ者がいないことを知っており、自分の葬儀の日が、人々の悲しみの日ではなく喜びの日になることを恐れたからだと言われます。幸い、この愚かな遺言は果たされませんでした。

ルカが「ヘロデの時」と書き認めた背景には、このような事情がありました。民衆は恐怖政治のもとで、将来に希望が見出せず、いつ巻き込まれるかも知れない不安と隣り合わせの生活を強いられていました。今日を、百年に一度の不況と呼んで絶望視する人がいますが「ヘロデの時」とは、もっと陰惨で過酷な時代でした。

しかし、光は闇に輝きます。時代の暗黒に失意落胆する人は少なくありませんが、暗黒の時代には、必ず不屈の人々が出現します。神が用意してくださるのでしょう。彼らは、この世の闇が濃いほど、神に望みを置き、光の到来を待ち望む人々です。

II. 救いを待ち望む人々

ルカが初めに紹介するのは、祭司ザカリヤと妻エリサベツです。イエス様時代のユダヤ社会は、宗教的硬直、道徳的退廃、政治的無力が目を覆うばかりでした。ルカはその中にあって、絶望しない人々を捜し当てるのが得意です。

たとえば、イエス様は人口調査のドサクサの中で生れ、周囲からは殆んど顧みられませんでしたが、いち早く駆けつけて来た人々がいました。神が選ばれたベツレヘムの羊飼いたちです(2:8-20)また、イエス様のお宮参りは、誰の目にも留まらないほど質素なものでしたが、老預言者シメオンやアンナの目は、救い主を見過ごしませんでした(2:25-38)彼らはみな、神の救いを待ち望んでいた人々です。

預言者エレミヤが「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もし、あなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」(エレミヤ29:13-14)と、主の言葉を語ったのは、このことです。

ザカリヤとエリサベツについては「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので彼らには子がなく、二人とも、もう年をとっていた」と、書かれています。

彼らは神を敬い、正しく生活していましたが、ユダヤ社会は子供がないことを恥辱と考えていました。ですから、エリサベツは「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました」(25節)と、歓喜の声を上げました。

その日、祭司ザカリヤは、神殿内で香をたく当番でした「彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた」とあります。これは、神殿における通常の香焚きではなく、特別な日の行為でした。このとき、御使いガブリエルが神殿に現れ「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」と命じました。

「あなたの願い」とは何でしょう。男の子を祈り求めていたように聞こえますが、それだけでしょうか。この時ザカリヤと外の人々が祈っていたのは、イスラエルの救いではなかったでしょうか。預言者たちが掲げてきた救い主の出現を待ち望んで、香をたき祈りを絶やさなかったのではありませんか。

確かに、ザカリヤの物語は、彼の不信仰が指摘され、彼が「ものが言えなくなる」現象が伴います。しかし、闇が支配する世の中にあっても、ザカリヤやエリサベツのように神の救いを待ち望む人々がいて、神の恵みのパイプとなっていたことは確かです。不信仰と侮ってはなりません。神はザカリヤを用いて、イスラエルの希望を確かなものとしてくださいました。

III. 光の到来の兆し

御使いガブリエルがザカリヤに伝えたのは「わたしは世の光です」と言われる、イエス・キリストの到来ではありません。救い主の先駆者となる男子の誕生についてです。ですから、光の到来ではなく、光の到来の兆しです。この兆は、神から来たものです。預言者たちが待ち望み続けてきた時が近づいている事を告げるものです。朝日は未だ昇りませんが、東の空がうす明るくなり、闇が後退し始めたのです。

ガブリエルは、老いたザカリヤに男の子の誕生を告げ、その子にヨハネと命名することを求めました。その子は「主の前にすぐれた者となる・・・母の胎内にあるときから聖霊に満たされ・・・イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます・・・彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」と、約束されています。

この啓示は、これに続くマリヤへの受胎告知と一対をなしています。それは、神に選ばれた者に与えられた光栄です。しかし、このときザカリヤの心を満たしたものは、喜びでもなく、感謝でもなく、戸惑いと恐れでした。後に、マリヤも同じ動揺を経験します(1:29-30)

ザカリヤとマリヤという選び抜かれた人たちが、神の栄光の訪れに際して、喜びではなく、恐れを感じるのはなぜでしょう。

私たちは、日ごろ光の中で生活をしていますが、光(太陽)を直視することはできません。たちまち目が眩んでしまいます。しばらく前、南米のチリで、700メートルの地底から32人の鉱夫たちが69日ぶりに奇跡的に救出されました。彼らが不用意に太陽の光を浴びないように、実に細心の注意が払われたことを思い出します。

私たちは、神の言葉の光に照らされて生かされていますが、神ご自身は近づく事のできない栄光の中におられます。パウロは「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン」(Iテモテ6:15-16)と、書いています。

ザカリヤの恐怖が物語るのは、如何なる人間も、神の御前、あるいは天使であっても、神に属する栄光の前では“恐れとおののきを感じるほかない”ということのようです。神が裁きをもたらす為ではなく、祝福をもたらすために近づいて下さるときでも、悲しいことに、人の心の反応は恐れから始まります。

これは、神の前で「人とは何者か」という問いに対する答えでもあります。人は、神の前に立つ事のできない罪人です。人間と神とのギャップがここに見られます。

ですから、その隔てを乗り越えて、神の子は人となられたのです。ヨハネは「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)と、証言しています。

神の子・イエス様は、神を知らない世界に神を見せるために、神を持たない世界に「神我らと共にいます」という希望を与えるために、人間と同じ立場・同じ姿をとられました。

パウロも「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ2:6-7)と、証言しています。

神の子イエス様が、私たちと同じ弱い肉体をまとって来て下さったので、私たちは今や、いつくしみ深いイエスと呼ぶことができます。恐れずためらわずに、神の恵みに近づく事ができます。

ザカリヤには不信仰があったでしょうが、それは、最も傑出した人々に属するものです。彼は、光の到来の兆しに動転しました。それは、私たち人間の弱さ・汚れ・卑しさを明らかにするものです。しかし、天から、即ち、神からの福音は「こわがることはない」と、呼びかけつつ近づいてくださいます。

昨年は、ノーベル賞を受賞された方々がたくさんおりました。それは朗報でした。しかし、政治や経済の領域では、不完全燃焼の排気ガスが充満していて息苦しい程です。

アドベントのただ中に有る皆さんに「神我らと共にいます」という、慰めと平安がありますように祈ります。