ルカの福音書説教

小林和夫師
第22回

7章-3:躓かぬ者の幸い

ルカ福音書7章18〜23節

イエス様がナインの町で、寡婦の一人息子を死から呼び戻されると、そこに居合わせた人々は「大預言者が私たちのうちに現われた・・・神がその民を顧みてくださった」と、神の御名を崇めました。この話は、周辺地方のみならず、速やかにユダヤ全土に広まったようです。バプテスマのヨハネの弟子たちも、この情報を獄中のヨハネに報告しました。

ヨハネは、イエス様に洗礼を授けてから、久々の登場です。彼は、イエス様を民衆に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と紹介して間もなく、ヘロデ王の怒りをかって投獄されました(マタイ11:2)

ヨハネのように勇敢で行動的な預言者にとって、処刑の恐れよりも、獄に繋がれて自由を奪われている苦しみの方がはるかに大きかったのではないでしょうか(ノルウェーのノーベル平和賞委員会は、今年の受賞者に、中国で投獄されている劉暁波氏を選んだ)

獄中のヨハネの関心事(希望)は、弟子たちがもたらす報告を通して、イエス様の活動に注目することでした。しかし、近頃のヨハネは、弟子たちから受けるイエス様の活動報告に満足できなかったようです。

弟子たちから聞かされた情報に、ヨハネは我が耳を疑い、少々苛立ちを感じていたかもしれません。彼は、弟子の中から二人を呼び寄せ、主イエスのもとに送り「来るべき方(ホ・エルコメノス)は、あなたですか。それとも、私たちは他の方を待つべきでしょうか」と、問いただしています「来るべき方」とは、神が約束してくださったメシヤ、イスラエルが幾世代も待ち望んできた救い主のことです。

いち早く、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」と見抜き、民衆にイエス様を紹介したのはヨハネでした。彼にとって、イエス様の他に「来るべき方」がある筈はありません。

しかし、獄中のヨハネは「私たちは他の方を待つべきでしょうか」と、重大な疑問を投げかけています。あの明晰なヨハネが、疑心暗鬼に駆られて苦しみもがいています。

私たちの知っている、決断的で確信に満ちた高潔なヨハネはどうしたのでしょう。彼とイエス様との間に、何があったというのでしょうか。

I. 高潔なバプテスマのヨハネ

初めに、私たちの知っているバプテスマのヨハネについて振り返ってみます。彼自身も選ばれた主の預言者でした。彼の父ザカリヤは、わが子の誕生に際して「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである」(1:76-77)と祝福しました。

ヨハネの歴史舞台への登場は鮮烈でした。彼は、ヨルダン川のほとりユダヤの荒野に立ち、荒野よりもすさんだ人々の心に神の声を響かせました。その第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:1)彼は、民衆を神への悔い改めに導き、邪悪なヘロデ王の権力にも屈せず、神の義を高く掲げてきました。

ヨハネは、民衆に迎合したり、権力におもねる卑しい野心家ではありません。人々が、ヨハネこそ「来るべき方」ではないかと期待を寄せたこともありました。その時も彼は、自分を見失いませんでした「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」(ヨハネ1:26-27)と、自分の立場を明らかにしました。民衆からこの上ない支持と期待を得た時も、奢らず高ぶることをしませんでした。

ある日、イエス様がヨハネの前に立つと、ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊・・・『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです」(ヨハネ1:29-30)と証言しています。

圧巻は、人々の関心がイエス様に移り、ヨハネの人気が衰え始めた時のことです。彼の弟子たちは、俗に言う“軒を貸して母屋を取られる”心境に陥りました。自分たちの先生が後輩に追い越されたような錯誤に陥り、妬みの感情に駆られたのです。

その時もヨハネは「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と、私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:27-30)と応えました。こんなに気高い人を、私たちは二人と知りません。

イエス様も、このようなヨハネを「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(マタイ11:11)と、明言されました。この高潔なヨハネを、何が疑心暗鬼の中に追い立て、苦しませているのでしょうか。

II. バプテスマのヨハネさえも

ヘロデの牢獄には、心を騒がせているヨハネがいます。外の世界では、イエス様をたたえる言葉が人々の口に上っていますが、ヨハネは、獄中に一人とり残されています。彼の喜びは失われ、信仰の確信も得られません。彼は、誰よりも早くイエス様を見抜き「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と宣言したのに、今や自分自身がイエス様に確信を持てなくなっています。疑いさえ抱いています。何故でしょう。二つの観点から考えてみます。

一つは、投獄された結果と言えるでしょう。投獄されたヨハネは、待ち望んでいた救いの手が速やかに訪れないので、心が打ちのめされていたかもしれません。

近年まで、災害に遭遇した人々に対する心のケアは、ほとんど関心が払われて来ませんでした。食糧や水など、物質的な必要を支援するのが精一杯でした。阪神淡路大震災の時、教会が破壊され、教会員の中に死傷者の出た教会の牧師たちの喪失感は計り知れないものがありました。その時、初めて牧師の心のケアが話題になりました。

大阪の池田小学校の児童たちへのケアも、これまでにないほど注意深く慎重になされたようです。ニューヨークのテロ事件が人々の心に残した傷には癒しがたいものがあります。茫然自失している人を立ち直らせるためには、真の共感者と時間が必要です。

ヨハネは、神様のために一所懸命に働きましたが、彼に与えられた報いは投獄でした。獄中のヨハネに自由はなく、情報も少ない。隔絶された孤独な日々が、彼の心を悲観的にしたとしても不思議はありません。

ヨハネは、預言者エリヤと比較されます。エリヤは、傲慢なアハブ王の時代に、身を呈して神に仕えました。彼は王の権力に屈せず、勇気を奮い立たせて戦いましたが、彼も鉄人ではありません。ある日突然、心が乱れ、恐れと不安が彼を占領しました。

彼は嘆きます「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください・・・私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」(I列王19:5-10)“もう、死にたい”という嘆きです。

これは、私たちが知っているエリヤとは似ても似つかない姿ですが、紛れもなくエリヤの心情吐露です。ここには、精根尽き果てたエリヤがいます。

換言するなら、平素、身に帯びていた霊的鉄人の仮面がひび割れして、肉の姿がさらけ出された場面です。

ゲッセマネの園という窮極の場面で、イエス様が弟子たちに語られた言葉「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)が思い出されます。

もう一つの決定的な理由は、救い主に対する、ヨハネの期待に誤解がありました。ヨハネやその時代の人々が期待していた神の国は、イスラエルの政治的復興再建でした(具体的には、ローマ帝国からの政治的独立)その期待は、イエス様の弟子たちにも見られました。弟子たちは、イエス様の復活を確信した後も「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」(使徒1:6)と、期待を込めて尋ねています。

獄中のヨハネの熱烈な期待にも拘わらず、イエス様は、一向に決起する様子がありません。ですから、ヨハネは、待ちきれない思いに駆られて使者を送ったのでしょう。これは、心すべきことです。神の前に立つ者は、自分の思い込んでいる事柄からも解放されなければなりません。私たちを取り囲む事態の推移が「たとえ、そう(期待通り)でなくても」(ダニエル3:18)キリストとその言葉に信頼したいものです。

III. 躓きを正す主イエス

イエス様は、ヨハネの使者に「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしに躓かない者は幸いです」と、答えて送り返しました。

この言葉は、ヨハネが熟知していた預言者イザヤのメシヤ預言(イザヤ61:1-3)からの引用です。ヨハネの目には、神の国の訪れが遅れているように見えました。すると、心は空しさを覚え、その空白にさまざまな疑心が生じ、心がかき乱されたようです。

イエス様は、ヨハネの誤った期待を修正されました。イザヤの言葉を提示して、メシヤによってもたらされる救いが何であるかを思い出させます。人は、一度思い込むと、なかなかそこから抜け出すことが容易ではありません。また、人は、自分の熱情によって知性を曇らされることもあります。

個人的な意見に過ぎませんが、エリヤの再来と言われたヨハネは、旧約聖書の最後、預言者マラキの言葉を深く心に刻んでいたようです。そして、情熱的なヨハネは、全体のバランスをとるよりも、マラキ書への傾斜が強すぎたのではないかと思います。

マラキは、救い主の出現を「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない・・・しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある・・・あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは・・・あなたがたの足の下で灰となる」(マラキ4:1-3)と預言しています。

これは、虐げられているイスラエルの救いを期待する終末の光景です。ヘブル書は「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(9:28)と、証言しています。

主の言葉の健全な理解が、私たちを無益な躓きから守ってくれます。