6章-5:聞いて行なう人
ルカの6章は、イエス様の幸福論に始まり、多くの具体的な教えがまとめられています。マタイ福音書のいわゆる山上の垂訓では、さらに詳しく、祈り・断食をし・施すことなどにも言及しています。
イエス様は、これらの教えの根幹にある原理を要約されました。前回の表現は「互いに愛し合いなさい」でした。それを、別の表現で言い表したのが31節の「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」です。以来、キリスト教は、これを黄金律と呼んで大切にしてきました。
本日の聖句も「裁いてはいけません・・・赦しなさい・・・与えなさい。そうすれば、自分も与えられます・・・」と、積極的な生き方を示しています。しかし、時として、人間の熱意は空回りして形式化することがあります。
ですから、パウロは「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13、ヨエル2:32の引用)と書きました。その上で、愛弟子テモテには「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義から離れよ」(IIテモテ2:19)と、勧告しています。
私たちキリスト者は“苦しいときの神頼み”とばかり、イエス様に「主よ、主よ」と呼びかけるだけでは不十分です。イエス様は、私たちが聞いて信じて行動し、良い実を結ぶことを期待しています。
マタイは「『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。その日には、大勢の者がわたしに言うでしょう『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』と」
ここには、イエス様の厳しい拒絶が有ります。この解釈は難解ですが、一言だけ申し上げておきます。おそらく、キリストの福音を私物化して異端化させた者への宣言でしょう。
一連の教えの最後に、主は人生を家造りになぞらえ、私たちの理解を助けて下さいました。
I. 家造りの心備え
イエス様は世界の創造者ですが、地上におられた時「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所がない」と言われました。イエス様が地上で最後の数日を過ごされたエルサレムでは、野宿されたようです「イエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた」(ルカ21:37)と、記されています。
このように、さすらい人のように生きたイエス様が、人生を家造りになぞらえておられるのは興味深いことです。パウロも福音宣教のために東奔西走して席の温まる暇がありませんでしたが、彼も建築の比喩を用いています(Iコリント3:9-17)
「人の子には枕する所がない」と言われた言葉を“イエス様が愚痴った”と考える人はおりませんが、どこか哀愁を感じます。
所沢で教会堂が新築されて間もない頃のことでした。雑談の席で、独身の中年女性が「私も一度でいいから新しい家に住んでみたい」と、言われたことがありました。その後まもなく、彼女の老朽化していたアパートが取り壊され、彼女も転居を余儀なくされました。そして、奇しくも新築したばかりの市営住宅に住むことになりました。
“荷物が多くて片づかない”と冗談を言ってましたが、念願がかない“新しい住まい”の香りに大喜びされた彼女の感激を今も忘れません。
日本語で大きい家と書くと“大家(おおや)”と読み、家主のことです。これを“大家(たいか)”と読めば“巨匠”を意味します。巨匠の場合は、その人が豪壮な邸宅に住んでいようが、裏長屋に住んでいようが関係ありません。私たちは、一芸を極めた人には惜しみなく“その道の大家”という賛辞を与えます。ここにも、人生を家造りと考えた先祖たちの思いが反映されているようです。
イエス様が、人生を家造りになぞらえ「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした」と言われた時、主は二つの真理を教えておられます。
一つは“人生は無常だ”と警告されました。うららかな日和も有れば、時ならぬ風雨が大洪水をもたらせる事もあります。時には、地道に積み重ねてきた努力が一瞬にして吹き飛んでしまうことがあり、その逆もあります。
私の娘は学生時代に、羽振りのよい社長の娘さんの家庭教師をしていました。娘がある日その家を訪れると、約束の日なのに鍵がかかっていて留守でした。その後の消息は、杳として知れません。時ならぬ不幸が訪れたのでしょう。
もう一つは、家(人生)の建築にはしっかりした基礎・土台が必要だと教えています。戦火で焼かれた東京では“掘っ建て小屋”(柱を直接地面に埋め込む土台なしの建物)が急場をしのいだ時代もありました。しかし、それは、仮住まいに過ぎません。家には、地震や洪水に耐える堅牢な構造が求められています。
私たちの住む世界の価値観は激変しています。時代の流れに巧みに乗る人もいれば、それを忌々しく思う人もいます。夏目漱石は“草枕”の冒頭で“智に働けば角が立つ。情に棹をさせば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい”と書きました。この種の悩みは、今日一層増大しています。誠実な人ほど何を指針に生きればよいのか困惑しています。
私たちには、信頼できる変わらない関係が必要ですが、それが見つからず、自分の人生にどんな土台を据えたらよいか分からず、悩んでいる人は少なくありません。
イエス様は「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人は、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」と言われます。
私たちの周囲にも頼もしく聞える言葉があり、期待を持たせてくれるものがありますが、申し上げましたように人生は無常です。草は枯れ、花は萎みます。そのような現実の中で、預言者は「神の言葉は永遠に立つ」と言います。新約聖書も「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変わることがありません」(ヘブル13:8)と断言します。決して時代遅れにならないのがキリストの言葉です。
危機に臨んだ時こそ、主イエスの言葉が、人間の寄り頼むただ一つの土台であることに思い至ります。この世の栄華は、野の花のようにはかないものです。イザヤは「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私達の神の言葉は永遠に立つ」(イザヤ40:8)と宣言しました。普段から神の言葉に望みを託して、揺るぎのない生き方を選択してください。
II. 聞くことについて
皆さんにとって「聞く」事は易しいことですか、それとも難しい事でしょうか。
時によります。ベタニヤのマリヤと呼ばれた女性は、ある時、イエス様の言葉に聞き入り、周囲を忘れたことがありました(ルカ10:42)子供にはよくある光景ですが、大人には珍しいことです。
多くの場合、ユダヤ人たちは、イエス様の言葉を自分本位に聞きました。イエス様が「いのちのパン」について語ると、気に入らなかった者たちは「これはひどい言葉だ。そんなことを誰が聞いておられようか」(ヨハネ6:60)と、拒否反応を示しました。
喜んで聞いたり、わけも無く拒んだりするのは、聞く側の好みや関心の度合、或いはその時の事情によります。要するに、人は自分を中心に考えて、受け入れたり拒否したりします。
しかし、その自分自身が不安定で絶えず変化していることを忘れています。預言者エレミヤは「地よ。地よ。地よ。主の言葉を聞け」(22:29)と警告しました。
「聞く」ことの重要性を言い表している言葉に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)があります。聞くことは、信仰の第一歩です。人は聞いて、知る喜びを得ます。
使徒パウロは「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ3:8)と感動を吐露しています。その筈です。イエス様自身が「永遠のいのちとは・・・唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」(ヨハネ17:3)と言われました。
知り得た知識は、実践されることによって人の全人格に浸透し、いわば血肉となります。知識が消化不良を起こすと、自己満足と傲慢に陥ります。そのような知識が他人を裁き、混乱の種を蒔くのでしょう。
III. 聞いて行なう
情報化時代の今日、人々が気にかけるのは“知っているか、知らないか”という事のようです。しかし、神の前では違います「知っている事を行っているか」あるいは「知識をむなしくしていないか」が問われます。
私達は、ある種の知識が道義的な責任を負うものだと考えますが、すべての知識が義務を負うとは考えません。時には知識と実践は全く別の事だと考えることもあります。しかし、神の審判は、知識に基づいています。
ヤコブは「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」(ヤコブ4:17)と明解に教えます。ヘブル語の「シャーマー」(聞く)は、前置詞を伴うと「従う」という意味になります。そこでは、聞くことが知ることであり、知ることが従う義務を負うことに真っ直ぐ繋がっています。
ヤコブは「み言葉は、あなたがたのたましいを救うことができます。また、み言葉を実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。み言葉を聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」(1:21-24)と勧告しています。