ルカの福音書説教

小林和夫師
第12回

5章-3:生きて働く信仰

ルカ福音書5章17〜26節

前回の聖句(5:12-16)は、イエス様に病を癒されたツァラアト(らい病人)の物語でした。主は、人々が汚れていると見なしたこの男に手を差し伸べて触れ「わたしの心だ。きよくなれ」と命じ、歴史的差別と偏見の障壁を越えました。その時、イエス様は口止めをされましたが、その噂が広まらない筈がありません。聞いた人々は、イエス様の所に集まってきました。本日の中風の男の癒しは、そんなある日の出来事です。

ここには、中風を患い、わが身を持て余している男がいます。今日でも、医者が持て余す難病・奇病が数多あります。古代社会ではなおさらの事でした。原因は不明、治療法がなく回復を見込めない。患者は絶望的する外ありません。

病気であれ事故であれ、不幸な出来事は、しばしば圧倒的な支配力を発揮します。おそらくそれは、周囲の者が、心を痛め目を覆い、事柄をあるがままに直視する事を避けようとするからだと思います。その雰囲気に気おされて、それ以外のものが何も見えなくなり、それ自体をも正しく認識できなくなるからでしょう。

しかし、私たちが見過ごしても、真実は自から出口を見出して輝き出すものです。本日のテキストの場合がそうです。中風の男は絶望的ですが、その周囲には、彼の不幸を自分の事のように真剣に受け止めている友人たちがいました。また、この男の罪を赦し、その病も癒して下さるイエス様がおられました。その結果、人々はみなひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と、感嘆の声を上げる事ができました。

I. 男たちの友情

私の敬愛したダビデ・マーチン宣教師(心臓弁を二度手術)は“自分が病気で倒れたら、タンカに乗せて礼拝に連れだすように”と、息子たちに頼んでいました。

神様は、自宅・教会・職場・旅先・病室・戦場・・・、何時でも何処でも私たちと共にいます。しかし、マーチン師の言葉は、教会の礼拝・聖徒の交わり・神を愛する人々と一緒にいたいという切なる願いの表明でした。

ところで、タンカで神のみ前に行くという事なら、元祖は、本日の聖句に登場する中風の男です。彼の場合、自ら進んで“イエス様の所へ連れていってくれ”と、友人たちに願った様子は見受けられません。しかし、結果的には、大胆な侵入者になりました。

私の推測ですが、彼は病気になって以来、いささか自虐的になっていたのではないかと思われる節があります。

病人には、概ね二つのタイプがあると言われます。入院生活を、多忙な日常生活から解放された束の間の休息と受け止め、神様に信頼して希望を持って療養に励んでいる人々がいます。また、自分の健康に自信を失い、何事にも弱気になり、信じて寄り頼む神もなく、くよくよしているうちにますます病状を悪くする人々もいます。

中風の男は後者のタイプです“何故病気になったのか”と考えては後悔し、憂鬱になっている様子です。そこから一歩も前進できません。

“病気がいつも罪の結果だ”というわけではありません。薬害エイズのようなケースもあります。しかし、多くの場合、飲み過ぎや食い過ぎ、連日の徹夜マージャン・・・など、不摂生の一つや二つは思い当たるものです。場合によっては、悪所通いのように道徳的な責めを負う事もあります。

彼の場合も、罪責感を引きずっていた様子が伺えます。

イエス様は、この男を一目見るなり「友よ、あなたの罪はゆるされた」と語りかけました。イエス様は、彼の心を占領していた罪の意識から、彼を解放する必要を感じたのです。彼の最大の苦しみは、病ではなく罪の意識でした。

私事で恐縮ですが、中学三年の二学期に疎開先から東京へ戻ってきました。すぐに二人の友人に恵まれました。彼らは、転校生の私に何かと親切でした。ある時、この二人が連れだって私の家を訪れ、楽しく一日を過ごしたことがありました。夕方、彼らが帰ると、母が私に“立派な人たちだね”と、大人を誉めるような言葉で誉めてくれました。母が私の友人を評価したのは、これが初めで最後でした。

この時の母の褒め言葉は、忘れ得ないものとなりました。口にこそ出しませんでしたが、私は自分が褒められた以上に得意になったことを覚えています。二人ともハンサムで、知性に秀でており、性格がさわやかでした。

その後、私たちはそれぞれの道を歩み出しました。私は神戸の神学校を経て、北海道・室蘭の牧師となり、友人たちとは次第に疎遠となりました。ある時、東京の路上でバッタリ出会った別の同級生に彼らの消息を聞く機会がありました。M君は大学の教師になっていましたが、S君の消息は不明でした。

S君は、一人息子として愛され、中学生の時からスケールの大きな好漢でした。友人の言葉によると“彼は就職して親元を離れ、不摂生が過ぎて結核に冒され、二年療養したところまでは知っているが・・・”ということでした。順風満帆で来た人生が、初めての挫折に立ち直れなかったようです。この時、彼の手を引く友があったらと悔やまれてなりません。

中風の男に戻ります。彼は、不自由な体で人前に出るのを頑に拒んだろうと思います(家内の父のリハビリー失敗談)けれども、友人たちは怯みませんでした“必ず癒してもらえるから・・・”と説得したのでしょう。悲観的な人を励まし、引きこもりがちな場所から引き出すのは易しいことではありませんが、友人たちは熱心に忍耐強く励まして、病む友をイエス様のもとに連れてきました。

ところが、来てみると、人々が戸口まで詰めかけています。とても病人を運び込める状況ではありません。こんな時に、様々な声が上がります“事前調査をしないから・・・思いつきでするとこんなものだ・・・嫌がる病人を無理強いして、人前にさらしただけではないか・・・ひとの迷惑も顧みないで・・・”

私たちの日常にも、この種の善意の行き詰まりはよくあります。その結果、善意の人々が臆病になり、やがて周囲の事に無関心になっていきます。しかし、まさにそのような状況下で、イエス様に向けられた「信仰と愛と希望」は真価を発揮します。

愛は、仕方がないと言って諦めません。友人たちは、イエス様なら必ず直せると信じていました。彼らは、病む友のためには、どんな犠牲も払う決意を持っていました。彼らは深い友情に突き動かされただけではありません。イエス様に対する揺るぎのない希望が、彼らを勇気づけました。それが不可能を可能にしたのです。

義務感や責任感だけで頑張っている人なら“出来るだけのことはしたのだから、またの機会にしよう”と引き下がるところです。しかし、愛は、常識や打算の壁をうち破って知恵を生み出します。誰かが“屋根をはがして、釣り下ろそう”と言いました“イスラエルの庶民家屋の構造は簡単で、屋根は取り外しやすい”と学者は言いますが、これは、犠牲を払う愛と不屈の信仰なしにはできない行為です。

II. 主イエスの評価

20節に、イエス様は「彼らの信仰をみて」と記されています。

この病人には、未だ神への信仰と呼べるものは芽生えていなかったようです。しかし、イエス様は、その友人たちの愛の執り成しに心を動かされました。主イエスの御業が現されるために、友人たちの信仰が如何に働くかを確認してみましょう。

今日は、個人主義の傾向が強い時代です。歴史的にみれば、国家権力や家の封建的体質から人々が解放され、個人の人格や権利が尊重されるようになった事は、大いに結構なことです。しかし、最近では、他人に無関心の風潮が強く“昔はそうではなかった”と、懐かしむ声も聞こえてきます。

神様は、人間を夫婦の交わりの中で創造し、親子の交わりの中で育み、人々との交わりのなかで生活するように造られました。私たちは、毎日、夫婦・親子・兄弟・友人・・・と、たくさんの交わりに支えられています。繰り返し申し上げることですが、人間のあらゆる関係概念の基本は、創造者が最初の人に掲示された御心「ふさわしい助け」にあります(人は、一人では生きられません)

信仰の世界でも同じです。“救いは個人的なものだ”と言われる方がいます。確かにその通りです。自己の責任において信じ、告白し、神に従うべきものです。個人の信仰が自立する事を求められるのは当然です。しかし、自立した者たちは、力に応じて「愛をもって互いに仕え」(ガラテヤ5:13)「互いの重荷を負い合う」(同6:2)ものです。

ですから、信仰を、個人の責任にだけ帰するのは正しくありません。それにも拘わらず、信仰の世界でも、個人主義的な傾向が顕著にみられます。

“信仰を子供に押しつけません”と、公言する方がいます。子供の人格を尊重しているように聞こえますが、それでは、幼児期の子供たちに対する親の責任は、どのように果たされるのでしょうか。幼児の食物や教育の事で放任する家庭はほとんどありません。霊的な薫陶は放置していいのでしょうか。子供に信仰が持てないならば、誰かがその欠けを補う責任がありませんか。信仰は自立的なものでなければなりませんが、幼児や未信者のために信仰の友が求められているのではありませんか。

他者の執りなしのために信仰を働かせたのは、本日の聖句に登場する友人たちだけではありません。ルカ7章には、病気の奴隷の為に信仰を働かせたローマの百卒長が描かれています。マタイ15:20 には「子犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言ってイエス様に縋り付いた母親がいます。ナインのやもめは、息子に死なれてなすすべを知らなかった時、主イエスの憐れみを受けました。このようなケースは枚挙に暇がありません。

パウロはピリピの獄中で「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と明言しています。

私たちは、今朝の聖句に登場する友人たちに啓発され、家族や友人の救いのために望みを持って祈り、心を尽くして仕えたいものです。家庭や教会内に止まらず、地域社会や学校や職場の中でも、祈りつつ執り成すことはいくらでもあります。

イエス様は「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」(ヨハネ17:19)と、執り成しています。