6章-3:主イエスの幸福論
本日の聖句は、イエス様の幸福論です。幸福論といえば、私たちが真っ先に想い浮かべるのは、マタイ福音書5章に要約された山上の垂訓でしょう。ルカの文書は、マタイの文書に比べると、さらに簡潔ですが、分かり易い一面があります。
イエス様は、これらの言葉を、ある時一回だけ語られたのではありません。むしろ、機会のある度に、繰り返し語られたと考えてよいでしょう(ギリシャ語の未完了時制は、繰り返されたことを伺わせる)何故なら、これらの教えは、イエス様にとっても弟子たちにとっても大切な事柄です。ここには「幸いです」と「哀れな者です」という表現が、4回も繰り返されています。改めて読んでみます。
「貧しい者は幸いです・・・いま飢えている者は幸いです・・・いま泣いている者は幸いです・・・人の子のために、人々があなた方を憎むとき・・・あなた方を除名し、はずかしめ、あなた方の名をあしざまにけなすとき、あなた方は幸いです」
それに続いて「富んでいるあなた方は、哀れな者です・・・いま食べ飽きているあなた方は、哀れな者です・・・いま笑っているあなた方は、哀れな者です・・・みなの人にほめられるときは、あなた方は哀れな者です」と言われました。私たちは、この言葉をどのように理解したらよいのでしょうか。
私たちはみな、幸いな者になりたいと願っています。私の知る限りでは、文字通り貧しさを求め、飢えを求め、悲しみを求め、辱めを求める人はほとんどいません。せいぜい、箴言の言葉「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください」(30:7)と、引用するのが精一杯です。
I. 新しい幸福の可能性
ルカは“イエス様の幸福論”を12弟子選出の直後に位置づけました。聖書に「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら」とあります。イエス様は、ご自分に従う決意をした弟子たちにどんな眼差しを向けたのでしょう。彼らはみな、潔く主に従う決意をした者たちですが、彼らの前途を正しく知っているのはイエス様だけです。その道は、イエス様の目にも狭き門・細い道と映っていました。
顧みると、イエス様の所へ群がり集まって来た人々は様々でした。神への道を期待した者達もいましたが、腹に一物もった野心家も少なくありませんでした。イエス様が飢え疲れた民衆にパンを与えると、早速、イエス様を王に仕立てて政治的に利用しようとした連中がいました(ヨハネ6:15)他にも、イエス様と一緒にいれば“食いっぱぐれがない”と、打算をはじいた者たちもいました(ヨハネ6:26-27)
これが、イエス様を取り巻く世間の現実です。弟子達もそのような時代の潮流の中で生まれ育ったのですから、必ずしも無欲恬淡としていたわけではありません。今日、私たちはキリスト者ではありますが、この世の動向にも超然としておれないのと同様です。
ですから、イエス様は、弟子たちの幸福一般に対する価値観を聖別する必要がありました。これまで、人々は、貧しさや飢え、悲しみや差別偏見は、幸福の敵だと考えてきました(今日でも極度の貧困は、人格を踏みにじり生命を奪う敵であることに変わりがありません)
貧困や屈辱の中に生まれた者は、そのように運命づけられていると考え、幸せになることを諦めていました。他方では、そのような境遇からなんとか抜け出そうとして、他人を押しのけ自分の欲望を満たそうとして争いが絶えません。
ここで、イエス様は新しい幸せの可能性を約束されました。それを「貧しい者は幸いです・・・いま飢えている者は幸いです・・・いま泣いている者は幸いです・・・人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです」という言葉で表現されたのです。
これは“貧しくなければ、飢えていなければ、泣いていなければ幸せになれない”と、いう意味ではありません。むしろ、世間から不幸せの真っ直中にいると見られている人々にも“幸せの門戸は開かれている”と、言われたのです。
多くの場合、人は、チャレンジするよりも諦めるほうを選びがちです。しかし、一度目を転じて見るならば、人は誰でも幸せ者になれます。何故なら、イエス様は「神の国はあなたがたのものです」と言われたのですから。
人間の幸せを、せっかちな、この世の価値観だけできめ付けず、永遠という広がりの中で受け止める時、新しい希望に満ちた将来が見えてきます。
私は、率直に申し上げて、地上の幸せも捨てがたいと思います。何故なら、イエス様が弟子たちに教えて下さった祈りの意図もそこにあるからです。主イエスは「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください」(ルカ11:3-4)と教えてくださいました。主は、私たちのメニューにも関心をお持ちです。その上で、神の国を目指す者には、さらに優った価値観があって当然です。
日々の食物も大事ですが、人の生命が軽く扱われ、命の危険が隣り合わせていた時代には、主イエスの言葉に優る慰めはありませんでした。イエス様はご自分を羊飼いになぞらえて「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)と宣言されました。「神の国はあなたがたのものです」と言われたイエス様の言葉が、あらゆる時代の虐げられてきた人々を支え、望みに生かしてくださいました。
II. 幸福一般の不確かさ
先に申し上げた事は、貧しいから幸せなのではありません。貧しさにもかかわらず幸せなのです。ですから、安易な幸福論は吟味されなければなりません。それが「富んでいるあなたがたは、哀れな者です・・・いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です・・・いま笑っているあなたがたは、哀れな者です・・・みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です」という言葉となりました。
富や満腹感や賞賛は、人々が求めて止まないものです。私たちも、そこに幸福があるような錯覚を抱きます。俗に“金持ち喧嘩せず”と言います。本当でしょうか。歴史上、世界を騒がせ、戦争を繰り返してきたのは、冨と権力でした。彼らが、平和の道を心得ているなどとは、とても言えません。
イスラエルの知恵は「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」(箴言15:17)「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(箴言17:1)と洞察しています。彼らは、愛や平和は、富とは必ずしも共存しないことを知っていました。
今日でも、富や名声にもかかわらず破綻している家は無数にあります。ですから、富や名声の伝説を過信してはなりません。貧しい者が富を得て、富の奴隷に成り下がったケースも数知れません。取税人となり富を得たザアカイやマタイの苦悩は、このへんにあったのではないでしょうか。
パウロは、愛弟子テモテに「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」(Iテモテ6:17)と諭しています。
III. 幸福の源泉
それでは、幸せはどこから来るのでしょうか。人がなりふり構わず勝ち取った富から来るのではありません。神が与えて下さる恵みを喜ぶ心の中に生まれます。いつでも、何処でも「祈り、喜び、感謝する」人々の中に生まれます。
最後に、聖書が教える幸せの言葉の意味を確認してみましょう。
「幸い(マカリオス)」という語は、英語の聖書では「BLESSED(祝福された)」と訳されてきました。すなわち、幸せとは、神の祝福だと理解して来ました。最近の英訳聖書では、これを「HAPPY」と訳す傾向があります。しかし、本来「HAPPY」の「HAP」は、偶発性を表現するものです(今日では、そのような論議は省略され、わかりやすさが優先するようです)
旧約聖書の有名な詩篇1篇を思い起こしてください。そこには「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(1:1-3)とあります。
ここで「幸い(アーシェル)」と訳されている語が、新約聖書の「幸い(マカリオス・祝福された)」に相当します。そして、ヘブル語のアーシェルの原義は「真っ直ぐ進む」ことです。これは興味深い事ではありませんか。
人生のそこかしこに「悪者のはかりごと・・・罪人の道・・・あざける者の座」が待ちぶせしています。サタンも光の天使を装うのですから、誘惑を退けるのは容易ではありません。
多くの人々が、巧みに呼びかけられて、屋台にでも立ち寄るような気軽さで道草を食い、習いが性となって後戻りできなくなり、ついに己の身を滅ぼすに至ります。大相撲の看板力士達の躓きは惨めなものです。
ですから、詩人は戒めます。寄り道しないで「真っ直ぐ進め」と促します。それが「幸い」への道だと知っているからです。
さて、何に向かって「真っ直ぐ進む」のでしょうか。言うまでもありません「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」のです。その延長に「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」という確信が生まれます。
これは、禁欲的に生きる勧めではありません。永遠の幸せに入るために、今日の日がたとえ不本意ではあっても恐れず、神を仰いで希望に生きる励ましです。神を仰いで真っ直ぐ進んで下さい。