ルカの福音書説教

小林和夫師
第11回

5章-2:主イエスの御心

ルカ福音書5章12〜16節

2001年の5月11日。熊本地裁は歴史的な判決を下しました。元ハンセン氏病患者の方々は人権回復を求めた裁判に勝訴しました。長く屈辱を強いられてきた人々に慰めが訪れました。彼らの失われた時間は取り戻せませんが、残りの時間は呪縛から解き放たれた自由を満喫していただきたいと願ったものです。

この病気で虐げられてきた人々の歴史は過酷なものでした。イスラエルでは、一度この病気にかかったと診断されると、宗教的にも汚れた者と見なされ、共同体の集落から追放されて、屈辱的な生活を強いられました。レビ記13章45節には「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって『汚れている(ターメイ)汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない」と規定されています。以来、イスラエルでは、この病気を罪の象徴として考えてきた歴史があります。

旧約聖書が使用している「ツァラアト」という語は、衣服のカビや家につくコケなどにも用いられますから、必ずしも今日のハンセン氏病と同一視する事はできません。しかし、難病であったことに変りはありません(新共同訳では「重い皮膚病」と訳し、新改訳もライ病に替わる表現を検討して「ツァラアト」としました)

旧約聖書にこのように書いてあるからと言って、私たちは、このような病苦の下にある人々が神から呪われていたと考えるべきではありません。偉大なモーセでも、この病気の破壊的な脅威に圧倒されて、このようにしか理解できなかったのです。ライ病人を疎外することが神の御心だったのではありません。そのように理解したのは、神ならぬモーセの限界です。これはモーセ批判ではありません。真理の探究のプロセスです。

使徒ヨハネは「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハネ1:17)と記し、モーセとイエス様を対比します。イエス様が来られて、初めて真理が明らかにされ、長く閉ざされていた闇に光が照らされました。モーセは「ツァラアト」に秩序を設けましたが、救済する事はで来ませんでした。そして、心ない人々が、これを差別の口実に拵えあげたのです。

人が差別の心を持つ背後には、本能的な自己防衛の働きがあります。自分でも気づいていない恐れが介在します。例えば“感染するかも知れない”との恐れが働き、排除を正当化します。イエス様は人となり「私たち罪人の代わりに死ぬ」という形で神の愛を見せて下さいました。神の愛を体験した私たちの心は、潜在的な恐れや不安から解放されています。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(ヨハネ4:18)と言われる所以です。光が来て、心の中にあった闇を追い払ってくださったのです。今や、私たちはイエス様の愛に生かされ、恐怖心がでっち上げていた根拠のない差別の垣根を越える事ができます。

I. 主よ、お心一つで

この日、イエス様の噂を聞きつけた一人の「ツァラアト」が、主の足下にひれ伏して懇願しました「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます」この言葉は簡潔ですが、自分の状況と主イエスに対する絶大な信頼を言い表しています。

彼は自分に烙印された「汚れ」を認識して苦悩して来ましたが「私はきよくしていただけます」と、大胆な確信も抱いています。彼は、神がどのようなお方かを知っていました。これこそ、主イエスが求める信仰の言葉です。

本来、神への信仰とは無制限なものです。しかし、私たちは愚かにも、しばしば“信じられない”という苦しみに悩まされます。

彼は重い病を負い、そのために疎外されていましたが、彼の信仰は、彼を虜にしていた差別や偏見という絶望の壁を打ち破りました。もう一度、彼の置かれた宗教的社会的環境を振り返ってみましょう。

70年安保闘争の頃、学生たちの間で人気のあった作家に高橋和己という方がいました。彼には“我が心は石にあらず”という小説があります(彼は、70年に結腸ガンのため京都大学助教授を辞職し、翌年39歳で逝去、前述の小説は33才の作品)

路傍の石なら、踏まれても蹴っ飛ばされても沈黙して耐えることができます。しかし、石ならぬ人の心は、侮蔑や差別にはことごとく傷つきます。それでも、立場の弱い者は沈黙し、歯を喰いしばって耐える外ありません。

イスラエルの「ツァラアト」は、沈黙することも許されませんでした。人々が不用意に近づいてくると、彼らは自ら「汚れている。汚れている(ターメー、ターメー)」と声を上げなければなりませんでした。

他人が侮蔑するのならいざ知らず、自分で自分を呪うことが強いられていました。これは、踏みにじられること以上の屈辱です。忍耐の限界を越えていると思います。彼らは家族から切り離され、神からも呪われた者と見なされ、この地上では行き場のない人々でした。

老人施設などで、おむつを当てられると痴呆が加速し、おむつが取れると痴呆が緩和されるということを聞きます。おそらく、屈辱感の中で痴呆に逃れる外、行き場を見いだせない人の最後の逃走なのでしょう。

「ツァラアト」の来し方は、想像を絶するものがありました。しかし、彼の心は希望を失っていません。自分が巡り会ったチャンス、イエス様との出会いに際して「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます」と懇願しました。この言葉は、なんと深い悲しみの淵から発せられたことでしょう。しかし、イエス様には届くのです。

20世紀の元ハンセン氏病患者の方々が、筆舌に尽くせない涙の谷を歩んできたのは事実です。それでも、彼らの闘争を支援し続けた善意の支援者たちがいました。イエス様の前にひれ伏す男には、これまで縋れる一筋の糸もなかったのです。

“希望を失った人は、生ける屍だ”と言われますが、彼は絶望の人ではありませんでした。たとえ、すべての人の目に無益のように見えても、神に望を持ち続けるなら再生の可能性があります「希望は失望に終わる事がありません」(ローマ5:5)祈りや叫びが、他ならぬ主イエスに向けられるなら「求める者は得、捜す者は見出します」

II. わたしの心だ。きよくなれ。

声は上げても、顔を上げることのできないこの男に向かい、イエス様は手を差し伸べ、彼にさわり「わたしの心だ。きよくなれ」と語られました。

イエス様は、既に「汚れた悪霊につかれた人」や「ひどい熱で苦しんでいた」婦人を、お言葉の権威で癒されました。医者であったルカは、時間も薬も使わずに癒すイエス様の力に圧倒されたことでしょう。しかし、この日のでき事は、ルカの心を、未だかつてない程感動させたに違いありません。

人々が近づくことも恐れたこの病人に、イエス様は「手を伸ばして、彼にさわり」癒されました。既に申し上げたように、イエス様はただ一言で癒すことができます。しかし、今は権威を示す時ではありません。いつくしみと共感とを伝える時です。癒す力よりも先に、受けいれる愛が示されました。

イエス様が恵みをお与えになる時、その手段方法は千差万別・臨機応変です。

残念ながら、教会が事を行う時は、表面的な公平や平等に妨げられて、個々の状況に柔軟な対応をできない事がよくあります。ルカが福音書を書いた観察眼や注意深さは、心して受け止めなければなりません。

この「ツァラアト」の祈り「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます」これこそ祈りの真髄を知る者の叫びです。イエス様の応え(聖意)も簡潔です「わたしの心だ。きよくなれ」力強くも慰めに満ちています。

ここでは、病む男のイエス・キリストに対するへりくだった信仰と不屈の希望が、イエス様の力に満ちた愛と合流して、生命の再生が起こりました「信仰・希望・愛」の奇跡です。神聖な律法を凌駕するキリストの恵。栄光、神にあれ。

この後イエス様は、彼に律法通りの手続きを教え、神に感謝のささげ物をするように指示されました。しかし「誰にも話してはいけない」と命じています。おそらく、奇跡的な恵みだけを期待する、興味本位の人々が多いので禁じられたのでしょう。

私たちの目には、このように衝撃的な癒しのでき事は宣伝効果満点です。しかし、イエス様は、そのようには考えておられないようです。ルカは、主イエスがこの人に「だれにも話してはいけない」と言われたことを書き残しています。少なくとも、イエス様は、このでき事を宣伝材料に用いなかった事は明らかです。

それでも「イエスの噂は、ますます広まり多くの人の群れが」集ってきたようです。しかし、「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」と記されています。私たちが修得しなければならないのは、イエス様のように静かに神の前に出る習慣です。


最後に、本日の説教題の弁明をしておきます「主イエスの聖意(みこころ)」といたしました。持って回った言い方のようで、少々躊躇いを感じていますが、是非ともこうしなければなりませんでした。

聖という文字は神聖などと使われます。いかにも神に相応しいものですが、近づきがたい感情を抱かされるのも事実です。しかし、本日のでき事は、主イエスが「わたしの心だ」と言われ、御手を差し伸べて病者を解き放たれました。

イエス様の聖なる御心が、まさしく、病む者の癒しであり、虐げられている者の名誉回復にあると教えているかのようです。換言すれば、私たちの基本的な日々の幸せは、本来、主イエスの聖意なのです。信仰の極意は、この聖なる神を「いつくしみ深き友なるイエス」と、受け止めて近づくところにあります。

ヘブル書の著者も「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)と、促しています。