4章-2:今日実現した
イエス様は御霊に導かれて荒野に行き、そこで40日間断食をされました。今日では、健康な食生活を取り戻すための断食道場もありますが、聖書で取り沙汰される断食は、食を断って神と向かい合い、神の御心を見出すために祈り続けることです。イエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受け「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と、父なる神の声を聞いた直後に荒野に導かれました。
このできごとを、私たちは“イエス様の荒野の試練”と呼びます。悪魔が登場し、知恵の限りを尽くしてイエス様を誘惑したからです。しかし、一つの事は様々な側面を持つものです。どの側面から見るかによって、問題の捉え方は自ずと異なります。
荒野の試練は“イエス様が悪魔に試みられた”には、違いありませんが、私は“人の子となられたイエス様が、御霊に導かれて父なる神と向かい合われた”と考えます。
モーセが神の啓示を受けたのは、ミデアンの荒野でした(出エジプト3章)使徒パウロが主の顕現に触れて退いたのはアラビア砂漠でした(ガラテヤ1:12)これらは、神の人が一意専心して主に仕えるために避けられない道でした。
I. 主イエスはガリラヤに帰る
こうして、イエス様は試練に打ち克ち「御霊の力を帯びてガリラヤに」帰って来ました「御霊の力を帯びて」という表現は、神の言葉に対する揺るぎない信頼と言い換えることが出来るでしょう。
イエス様がヨハネからバプテスマを受けたのは、南のユダヤ、悪魔に試みられたのもエルサレムに近い所でした。洗礼はスタートですが、今や試練済みのイエス様が、異邦人のガリラヤに帰って来ました。
マタイは、その直接の事情を「ヨハネが捕えられたと聞いて、イエスはガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である」(4:12-13)と、記しています。
こうして、イザヤの預言「苦しみのあった所に、やみがなくなる・・・異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(9:1-2)という言葉が成就しています。
イザヤがメシヤの誕生を預言した時、苦難の歴史を負う異邦人のガリラヤを心に留めたのは特筆すべきことです。そして、ルカが描くイエス様の物語は「エルサレム途上」に要約されますが、その第一歩は異邦人のガリラヤから始まります。
「先ず、虐げられてきた者たちから」これが、恵み深い神様の順序です。ブドウ園で働いた労働者のたとえ話もそうでした。農園の主人は、1時間だけしか働けなかった最後の者に、最初に賃金(平安)を払いました(マタイ20:1-14)主にあっては「悲しんでいる人たちは幸いだ」と、言われる所以です。
イエス様はガリラヤのナザレで成人され、人々から「ナザレのイエス」と呼ばれましたが、宣教活動に入ると、住居をナザレからガリラヤ湖畔のカペナウムに移しました。そして、このカペナウムを「自分の町」と呼んでいます(マタイ9:1)
II. 御霊がおられて
イエス様はナザレに帰って来られる前に、カペナウムに寄られたことが明らかです(14節)
イエス様は23節で「きっとあなたがたは『医者よ。自分を直せ』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう」と、語っています。
ナザレの人々は、カペナウムで得たイエス様の名声を伝え聞き、安息日に会堂に来られたイエス様に聖書朗読のチャンスを与えました。手渡されたのは預言者イザヤの書です。
通常、ユダヤ教の会堂では、安息日に読む聖書の箇所が決められています。しかし、17節の「その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた」という表現は、イエス様がこの箇所を意図的に選ばれたと理解するのが自然です。
イエス様が読まれたのは、救い主を待ち望んでいた預言者イザヤが、次のように描写した箇所です「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」(イザヤ61:1-2の引用)と。
イザヤは、来るべき救い主(主のしもべ)と、主の御霊が一つにされることを待ち望んでいました。その時こそ、神の慈しみが繰り広げられ、公平や正義が行われ、虐げられている人々の解放が始まる「主の恵みの年」が、訪れることを確信していました。
本来、神の子は聖霊と不可分の関係ですが、人の子となられたイエス様には聖霊との交わりが最優先課題でした。聖霊との一致がなければ遣わされた使命を果たすことはできません。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)という原理は、イエス様の場合でも不変です「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者に」なりきった証です(ピリピ2:6-7)
イエス様が聖書の朗読を終えると、期待に満ちた人々の目がイエス様に注がれました。
III. 今日、聖書の言葉が実現した
私には、イエス様がイザヤ書61章の朗読を途中でお止めになられたような印象があります。それは、預言の部分的成就と関係があるように思います。
イエス様は、注目する人々に「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と、宣言されました。それは、貧しい者たち、虐げられて来た人々、障害と苦難を負わされて来た人々が、偏見や差別から解き放たれる時が訪れたことを告げるものです。まさに「主の恵みの年」の始まりです。
イエス様は、この恵みの年が「わたしの上に主の御霊がおられる」事実に発することを明らかにして「今日・・・実現した」と、言われました。換言すれば、主イエスは「わたしが、イザヤの預言した主のしもべであり、メシヤだ」と言われたのです。この発言は聴衆に衝撃を与えたようです。その波紋の詳細については、次回学びます。今日は、イエス様の言葉と、著者ルカの意図を考えてみます。
イエス様はイザヤ書を引用して“イエス様のことなら幼い頃から何もかも知っている”と考えるナザレの人々に、改めて、ご自分が何者であるかを宣言されました。間接的ではありますが、これはイエス様にとって初めてのメシヤ宣言です。
それとともに、前章のできごとを想起するなら「聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」という主張を、心に留めるべきです。
“論語読みの論語知らず”という言葉がありますが、イエス様は聖書に熱心で精通していると自負している人々に、次のように警告を発した事があります。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハネ5:39-40)
ここでも主イエスは、聖書の約束を習慣的に受け止めるのではなく、聖書の言葉を信頼し、聖書に希望を抱くように教えているのではありませんか。
ルカは、イエス様のお言葉に「きょう(セーメロン)」という副詞を添えることを忘れていません。これは小さい言葉ですが、ルカは好んで用いています。新約聖書では41回使用されていますが、ルカ一人で、その半分・20回用いています(使徒の働きを含む)
「きょう」という言葉が、ルカの福音書を随所で類ないほど生き生きとさせているのを皆さんはご存じでしょう。以下に、主なものを列挙します。
「きょうダビデの町で・・・救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(2:11)幾千年の沈黙を破った今日です。
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(4:21)
「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」(13:33)刹那的な今日ではありません。永遠に繋がる今日です。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしている」(19:5)主はザアカイを見出して立ち止まりました。
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(19:9)“身から出た錆”とは言え、憎まれ嫌われ疎まれたザアカイを、主は受け入れます。
「きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(22:34)空威張りは、今日一日も通用しません。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と主は約束されました。主はまことに慈悲深い(23:43)
既に繰り返し申し上げてきましが、ルカは、第一章から救い主を待ち望む人々を描いてきました。祭司ザカリヤ(1:13)預言者シメオン(2:25)とアンナ(2:38)羊飼いたち(2:8-14)無名の民衆(3:15)みな、救い主を待ち続けた人々です。彼らは、この世では常に後回しにされてきた人々です。
ザアカイや十字架で刑死した犯罪者も、自業自得とはいえ、この世から疎外された者たちでした。自ら異邦人であったルカは、疎外された者の痛みを誰よりも良く知っていたようです。それ故、彼の伝える福音は「きょう」なのです。明日では遅すぎる人々に、福音が今日提示されなければならなかったのです。
最後に、私たちもヘブル書の勧告を聞きましょう「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(ヘブル4:7)