ルカの福音書説教

小林和夫師
第32回

2章-4:救い主を待ち望む人々

ルカ福音書2章25〜40節

本日は、シメオンとアンナという敬虔な人々について語ります。ですから、説教題は、当初“救い主を待ち望んだ人々”としました。しかし、途中で“救い主を待ち望む人々”(現在形)に変えました。なぜなら、説教を聞くのは皆さんです。そして、救い主を必要とし、救い主を日々待ち望んでいるのも皆さんだからです。

イエス様誕生の物語は、良くご存知でしょう。ローマの皇帝アウグストが“人口調査をせよ”と勅令を発し、マリヤは臨月であったにも拘わらず、北のナザレから南のベツレヘムまで旅を余儀なくされました。そして、混乱の最中、家畜小屋でイエス様を出産しました。

救い主の到来を待ち望んだ預言者ゼカリヤは「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる」(ゼカリヤ9:9)と預言をし、救い主の来臨を先取りして歓喜しました。しかし、神の御子がベツレヘムに降誕された時の様子は、しめやかなものでした(讃美歌115、ああ、ベツレヘムよ)

イエス様が、人の子として私達の世界にお生まれくださったことを、ラテン語でインコグニトゥースと言います。これは「匿名」とか「お忍び」という意味です。

お忍びと言えば、私たちの間では、水戸黄門の全国行脚がなじみ深いです。黄門さんには、“助さん”“格さん”という頼もしい二人のSP(身辺警護)が付いていました。黄門さんは、危険が避けられなくなると、なにやら懐から取り出して“これなる印籠が目に入らぬか・・・”と脅しつけます。これにて一件落着です。

イエス様の“お忍び”は、黄門のように安易なものではありません。神の子の特権を放棄された主は、なされるままでした「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1:10-11)イエス様は、誕生から十字架の死に至るまで、疎外され、打ち捨てられて孤独の道を歩まれました。

しかし、視点を変えれば、それが全てではありません。預言者イザヤが「残りの者」について預言したように、或いは、絶滅収容所から奇跡的に生還する人々があるように、真実や真理は埋もれて朽ちていくことはありません。時が来ると、必ず見いだされます。

同様に、全世界が、挙ってイエス様を拒んでも、真理を求める者・捜す者がいる限り、救い主は必ず見いだされます。エレミヤは「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」(エレミヤ29:13-14)と、神を代弁しています。

イエス様が、割礼を受けるためにエルサレム神殿に初詣された時、人目を引くような著しい印は、何一つ帯びていませんでした。産着にしても、おそらく、親切な隣人が何とか都合してくれたお下がりだったでしょう。しかし、預言者シメオンの目は、老いたりとは言え炯炯としていました。幼子イエス様に秘められた神の栄光を見過ごすことがありません。シメオンの信仰の目は、イエス様に宿る本質の輝きを見抜いて、神を賛美しました。

I. シメオンの人となり

ルカは、シメオンについて記しています「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」と。

1、「正しい(ディカイオス)」という語は、身を屈せず真っ直ぐに立つことが原義です。

年をとると骨粗鬆症になる傾向が避けられません。腰も曲がり始めます。しかし、シメオンは、時代の不信仰や腐敗にもめげない、霊的な硬骨漢だったようです。このような人は、闇が支配する世界の中で、希望の光を掲げ続けてきました。

2、彼は「敬虔な人(ユーラベース)で、イスラエルの慰められることを待ち望んで」いました「敬虔な人」とは賞賛の言葉ですが、今日では、キリスト教界で敬虔派(主義)と言うと、時には侮りが込められていることがあります。

シメオンにとって、敬虔とは、ひたすらに神を仰ぐことです。脇見をしないことです。ダビデ王は「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」(詩編16:8)と賛美しています。

シメオンも神を仰ぎ、自分を取り巻く世界の状況がどうであれ、神に希望を抱き続けた不屈の人でした。このような人の存在は見過ごせません。必ず、周囲の人々に希望を与えます「主に信頼する者は、失望に終わることがない」と言われますが、シメオンも「主のキリストを見るまでは、決して死なない」という確信を抱いていました。

3、さらに「聖霊が彼の上にとどまっておられ」ます。ですから、彼は、昔の預言者エリヤのように、心に響く聖霊の細き御声を聞き逃しません(I列王19:11-12)彼は、宮の入り口で見張っていたわけではありませんが、幼子イエス様が宮に来られた時、御霊に導かれて救い主に出会うことになったようです。

II. シメオンの賛美と預言

シメオンの霊的な直感は、幼子イエス様を見て、この方こそ自分が待ち望んでいた救い主だと確信しました。彼は、近づいて幼子を腕に抱き、神をほめたたえています。29節以下の言葉は、シメオンの喜びの大きさを伝えています。

1、シメオンの感謝

シメオンは感極まって賛美します「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」と。いつ死んでもいいという満足感です。

シメオンの時代、この世の腐敗や堕落とその混迷ぶりは、老預言者の心に片時も平安を与えてくれませんでした。しかし、今や、彼は満ち足りています「私の目があなたの御救いを見た」と、感謝の賛美をささげています。

彼が、いま見ているのは、マリヤに抱かれた幼子イエス様です。このイエス様が、実際に活動を始めるのは、それからおよそ30年後のことです。信仰の目は偉大です。シメオンは、バプテスマのヨハネよりも30年前に、救い主を先取りして充足感に満ち足りています。

2、シメオンの賛美

彼の賛美は続きます「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」と。イザヤが、偉大な預言者である事は論を待ちません。そして、シメオンの賛美もイザヤ(42:6、49:6)に直結しています。

生涯をかけて「イスラエルの慰められることを待ち望んだ」真のイスラエル魂が、シメオンの中に見られます。彼は、イザヤと共に異邦人を救いの視野に捉えています。これが、自ら異邦人であったルカの琴線に響かなかった筈がありません。

省みると、自国の利益だけを、近視眼的に声高に叫ぶ人々が、いつも国々を悩ませて来ました。真の愛国者とは、単純な国粋主義者ではなく、シメオンのように異邦人にも目を向ける、換言すれば、全世界的な視野を持った人のことです。

3、シメオンの預言

シメオンの霊的な洞察は、救い主の苦難を見過ごしていません。彼はマリヤに向かって「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは、多くの人の心の思いが現れるためです」と、ためらわずに語ります。これは比喩的な表現ですが、イエス様の受難が、母マリヤにもたらす心を抉られる苦しみの予告です。

シメオンの言葉は、幼子の過酷な運命を憐れむのではなく(彼は、それが避けられないことを知っていた)マリヤが遭遇する苦難に同情の念を寄せています。彼の預言の背後には、まさしくイザヤ書があります。

30節の「私の目があなたの御救いを見た」32節の「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」とは、イザヤ書の引用そのものです。

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする」(イザヤ42:6)

「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」(イザヤ49:6)

「主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」(イザヤ52:10)などを引用したものと考えられます。

このように、シメオンがイザヤ書を愛読して救い主を待ち望んでいたのなら、彼はイザヤ書53章の主の僕の苦しみも熟知していたことでしょう。これこそ信仰の生む知識です。

III. 老女アンナ

ルカは、シメオンだけではなく、老女アンナをも紹介しています。彼女は「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」人でした。

イエス様の宮詣の時、彼女もそこにいて、幼子イエス様にお会いし、イエス様を救い主と知って神に感謝をささげました。それだけではなく、彼女は「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った」とあります。彼女は心に溢れた喜びを、早速、周囲の人々と分かち合いました。

私たちは、神の御子が受肉されて世に来られた時、この世界がイエス様に無知であったり、無関心であったことを悲しみます。しかし、神様は、心から待ち望んでいた人々を備えていました。ルカが、見事に伝えている通りです。

この世では、少数派はいつも肩身の狭い思いをします。しかし、主にあっては、恐れる事も失望することもありません。昔、預言者エリヤは、自分ひとりが孤軍奮闘していると思い悩んでいました。すると、神は「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者である」(I列王19:18)と言って、エリヤを鼓舞しました。

パウロが、コリントの町で挫折感を抱いて恐れていた夜、神はパウロに「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいる」(使徒18:9-10)と、励まし語りかけました。

私たちは、この国で1%に満たないキリスト者です“数こそ力だ”と錯覚しているこの世界の中では真に小さな群にすぎません。しかし、恐れることも失望することもありません。

イエス様のお言葉は「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」(ルカ12:32)と約束しています。

イエス様の十字架の死によって、救いの手を差し伸べてくださった神に信頼してください。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)