ルカの福音書説教

小林和夫師
第9回

4章-4:主の言葉の権威

ルカ福音書4章38〜44節

イエス様は「預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」と言われました。その言葉通り、イエス様はナザレの人々から酷い仕打ちを受け、その地を離れてカペナウムに移られました。

カペナウムはガリラヤ湖の北岸に位置する町です。この町の人々はイエス様を歓迎した様子です。42節に「群衆は、イエスを捜し回って、み許に来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした」とあります。もちろん、打算が働いたことは言うまでもありません。

二つの町のイエス様に対する受け入れ方が、なぜこんなに違うのか明らかではありません。しかし、推測は可能です。当時のカペナウムには、ローマの駐屯地があり、百卒長が常駐していました(ルカ7:1-10)この百卒長は、ユダヤ人の長老達ときわめて友好的な関係を持ち、ユダヤ会堂の建築も支援したほどです。

また、この町には、イエス様に召されて弟子となったマタイが勤務していた収税所もありました(マタイ9:9)これらの事から、カペナウムの政治経済的な重要性が伺えます。このような町には、外国人居住者も多かったと推測されます。ですから、カペナウムの雰囲気は、ナザレよりも開放的だったと考えられます。新しいものに対して比較的寛容でした。それが、イエス様がこの町を拠点とした理由の一つであったと思います。

I. カペナウムで安息日ごとに教える

カペナウムで、主イエスは既に数々の奇跡を行われました(23節)しかし、ルカが改めて伝えているのは「イエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた」という事実です。そして、人々はその教えに驚きました。その言葉に権威を感じたからです。ここには恵みに満ちた説教者と、幸いにも謙虚な聴衆がおりました(どちらが欠けても不幸です)

先のナザレでは、人々は耳を傾けてはいても心は閉していました。彼らは、イエス様の言葉に満足しませんでした“いつ奇跡が行われるか”と、勝手な期待をしていました。へりくだって御言葉を聞く心を忘れ、芸能人でも迎えるような興味本位の連中でした。

ルカは、カペナウムで次々に行われた奇跡的な恵みを記しています。イエス様の力ある御業は、ルカにも大きな関心事だったのです。しかし、ルカ福音書の意図がイエス様の言葉を最優先したのは明白です。イエス様の語られた言葉に権威と力があり、カペナウムでは自から御業が繰り広げられたのです。

預言者イザヤは、神の言葉の権威を信頼し「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(イザヤ55:10-11)と、宣言しています。

ヤコブも「心に植えつけられた御言葉を、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」(ヤコブ1:21)と、証言しています。

繰り返しますが、ルカが懸命に伝えているのは、カペナウムの町で、主イエスが「安息日ごとに、人々を教えられた」ことです。神の言葉には慰めがあり、力があり、癒しがあり、希望があるからです。

その結果として、み言葉を心に留めた人々の間に、奇跡的な恵みが展開しました“奇跡が先行した方がわかりやすいではないか”と、考える人たちがいます“頑なに順序にこだわらなくても”と鷹揚です。しかし、将棋や碁を打ったことのある人ならご存知でしょう。駒を動かす順序は勝敗を決定します。私たちが生ける神と結びつくのは神の言葉への信仰(信頼)です。信仰をないがしろにすると、神との関係は早晩むなしくなります。

II. 主の言葉の権威

本日の聖句は、イエス様が安息日に聖書を語るだけではなく、ユダヤ人の慣習を破り、悪霊に苦しめられている人や熱病に苦しんでいた女性を癒されたことを告げています。

ユダヤ人は、安息日に病人を癒すことは律法違反だと考えていました(人々が、日が暮れてから病人をイエス様の所へ連れてきたのは、安息日が日没とともに終わるからです)

これに対し、イエス様は「安息日は人のためにある」(マルコ2:27)と、主張されました。歴史的に歪められた安息日理解を正されたのです。主イエスは、ここにおいても、いつくしみ深く正しい権威を示されました。イエス様の権威がどのように働き、どのような性質のものであるかを考えてみましょう。

1. 主イエスの権威

神が世界を造られた事を、私たちは“命令創造”と言います。なぜなら、光を造られた時、神が「光あれ」と命じたからです。世界は神の言葉(神の意志)で造られました。神の言葉の権威は無限です。

ルカは、イエス様が病者を癒すとき、35、39、41節で繰り返し「しかった(エピティマオー)」と表現しています。この言葉も「命じた(エピタッソウ)」と共に、ルカが注意深く用いた動詞です。

もちろん、主イエスは、病人の頭に慰めの手を置いて癒すこともされました。しかし、イエス様の奇跡は、基本的に命令によってなされました。ラザロの墓の前でも「ラザロよ。出てきなさい」(ヨハネ11:43)と叫ばれました。「熱をしかりつけられる」とは、ふつうの表現ではありません。それだけに、医者ルカの意図、即ち、イエス様の言葉の権威を主張するこだわりが伝わってきます。

2. 主の権威の領域

ルカ福音書は、イエス様の活動の初めから、その権威があらゆる領域に及ぶことを明らかにしています。

1、主の権威が最初に直面したのは「汚れた悪霊につかれた人」との出会いでした。当時の人がみな“病気をすべて悪霊の仕業”と考えていたわけではありませんが、人間の知恵では解明できなかった脳障害などは、悪霊の仕業と考えたようです。

英語にも“Lunatic、Moonstruck”という精神科の病名があります。語源は月ですから“月に打たれた”とでも言うような、今日では非現実的な病名です。要するに、人の手に負えない絶望的な状態にある人の病状を指したものです(日本でも、ハンセン氏病を“天刑病”と呼び、差別忌避した不幸な歴史がある)主は、精神と霊の世界にも権威を持っていることを明らかにするため、彼を叱って(命じて)「黙れ。その人から出て行け」と言われました。

2、次に直面したのは、シモン・ペテロの奥さんのお母さんでした。彼女が高熱に悩まされ苦しんでいた時「人々は彼女のためにイエスにお願いした」とあります。彼女は、周囲の人々に愛された人柄だったのでしょう。

マルコの福音書は、この時一緒にいた人々の名前を、ヤコブとヨハネ、シモンとアンデレ(1:29)と記しています。おそらく、この二組の兄弟弟子は、子供の頃からこの婦人に可愛がられてきたのでしょう。そして、彼女の娘がシモンの妻となりました。

イエス様が「その枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始め」ました。主はこれによって、肉体もご自分の権威の下にある事を示されました。

3、イエス様の権威の領域を知らせるために、ルカは8章24節でも「イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった」と記しています。ガリラヤ湖が荒れ狂い、漁師だった男たちも為すすべを知らず、死の恐怖に脅かされていたとき、主は御言葉の権威で風と海とを静めました。弟子たちの感動は「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」という言葉に言い表されています。

“主イエスの御言葉の権威は、天にも地にも霊界にも肉体の世界にもあまねく及ぶ”これがルカのメッセージです。

3. 主の権威は比類がない

最後に、主イエスの権威は別格です。軽々しく模倣してはなりません。ルカは注意深い人でした。彼は「叱る(エピティマオー)」という言葉を、主イエスにのみ帰しています。

弟子たちの行為にも「エピティマオー」と言う言葉が使われなかったわけではありません。しかし、それらは、いずれも見当はずれな使用です。

例えば、イエス様の祝福を求めて連れて来られた子供たちを、弟子たちが叱りつけたことがありました(18:15)「イエスはそれをご覧になり」憤られました(マルコ10:14)

また別の所では、イエス様のあわれみを求め続けた盲人を「黙らせようとして・・・たしなめた(原語は、叱った)」ことがありました(ルカ18:39)しかし、その時も「イエスは立ち止まって、その盲人を連れてくるように言われました。

いずれも不適切な用法でしたが、その典型は、エルサレムに進み行くイエス様を止めようとして、ペテロが熱誠を込めて「いさめた(これも原語は「エピティマオー(叱る)」時のことです(マタイ16:22)これほど酷い使い方は他にありません。ペテロのイエス様を案じる思いは分かりますが、主は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、譴責されました。

教会が、主イエスから権威を授かっている(マタイ18:18)と、認識しているのは正しいことです。しかし、少なくともルカは、人がこの権威を正当に用いることが至難であると警告しているように受け取れます。

ルカは「使徒の働き」に面白いエピソードを記録しています。悪霊払いを看板にして儲けていた男たちが、パウロがイエス・キリストの名において奇跡を行ったのを見て模倣しました。すると悪霊が「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」(使徒19:15)と言って襲いかかり、酷い目にあわせました。

聖書の言葉の扱いは慎重さが求められます。殊に、他人に向ける場合は尚更です。