6章-4:愛し愛される喜び
本日のテーマは“愛と喜び”です。“愛する喜び”は能動的です“愛される喜び”は受動的です。日々の生活を、愛して喜び、愛されて喜ぶことができるなら、こんなに幸いなことはありません。喜びは力の源です。愛と喜びのある所で、生活は生き生きとします。
ところで、私たちは他人を評して“この人は積極的だ”とか“あの人は消極的だ”などと、気軽に判断することがあります。しかし、それは、その人の外面に出てきたホンの一部に過ぎないことを了解しておかなければなりません。人は、程度の差はありますが、能動と受動との二面を備えられて造られています。
“愛される喜び”(時には迷惑を感じる事もあるが)これは、誰も異存がないでしょう。愛され大切にされると、心に喜びが溢れてきます。
しかし“愛する喜び”となると、そんなに単純ではありません。愛されることには、殆んど躊躇いも感じませんが、愛することはしばしば苦悩を伴います。愛するが故に、悲しみや苛立ちを増すこともあります。私たちは、愛すべき時に愛せない苦しみを知っています。その上、人間の愛には、損得勘定も割り込んできます。
愛されるのは喜びですが、愛するのは難しいと感じているのが、大方の私たちの現実ではありませんか。愛さなければならないと考えると重荷になります。ちょっと変ですね。どこかに狂いが生じているのではないでしょうか。愛することが喜びとなれば、人生は希望と力に満ちたものになるに違いありません。
I. 人は愛の中に生まれ、愛されて育つ
この問題を、私たちの存在の初めに遡って考えてみたいと思います。人は、神様に造られました。神様は愛です。愛の神は、その英知を傾けて初めの人を造りました。神が人をご自分に似せて造られたのは、人をかけがえのないものとして愛しておられる証です。神に造られた人間は、まさしく神の愛と知恵の結晶です。
神様は初めの人を造られた後、人間の誕生を人の手に委ねてくださいました。以来、人は夫と妻の愛の交わりの中で生み出されてきました。赤ちゃんが生まれると、両親も周囲の者たちも“愛の結晶だ”と言って憚りません。その通りですが、その根源に創造者の愛があることを忘れてはなりません。
科学技術が進んだ今日では、試験管の中でさえも人が生まれます。これは妊娠の難しい夫婦には朗報です。私は、そのような貢献を否定する者ではありません。しかし、それは例外であって、創造者が意図したことではありません。神は、人の子が愛の喜びの中から誕生するように定めてくださったのです。
生まれ出た赤ちゃんは、内に偉大な可能性を秘めていますが、しばらくは、無力そのものです“呱々の声を上げる”と言いますが、意味は不明です。しばらく経って、やっと微笑みかけるようになります。しかし、この嬰児には、初めから多くの愛情溢れる眼差しが注がれています。人は生まれたときから、いまだ愛することも愛されることもまったく理解しない時から愛されています。
最近、幼児虐待のニュースをよく耳にしますが、そんなことはあってはならない不幸です。赤ちゃんは、そこにいるだけで、見ず知らずの人の心をも和やかにする魅力を持っています。よく“愛なしには生きられない”と言われますが、本当です。子供たちは、両親を初め周囲の人々の愛を一身に集めて、愛されて愛されて育ちます。
私自身は、父親のことをほとんど知らずに育ちました。私と兄の間に4人の姉が生れていますから、聞くところによると、久しぶりの男子誕生で父は喜んだそうです。しかし、それは姉達からの伝聞です。残念ながら、私には父に繋がる想い出は何一つありません。
しかし、自分が父親になって、ある時、わが子の寝姿を飽きもせずに見つめていたとき、はっとしました。自分も嬰児だったとき、父に見つめられていたことに気づいたのです。写真でしか知らなかった父の愛を実感しました。
自分中心の生活を謳歌していた若い娘さんたちが、結婚して母親になると変貌します。強いられずに献身的な生活に切り替えます。その変化は見事です。
時には“子どものために自分を犠牲にしたくない”と、主張する声も聞きます。私の遠慮のない考えを申し上げれば、そのような人は子どもを望まないことです。生命の継承は片手間ではできません。あらゆる生命は、命がけで子孫を残しています。
造られたものの中で、人間の子どもほど手が掛かるものはありません。動物の子供たちは、速やかに親離れをします。人の子は、そのように造られていません。立ち上がるのに1年もかかります。言葉で意思表示するまでに2年もかかり、成人するまで20年もかかります。手がかかり、金がかかり、心がかかります。人の子は、愛情を注ぎ、犠牲を払い、手をかけて育てるように定められています。これは、人間創造における神の御心です。
II. 愛されたのは愛するため
私たちが、このように愛され手をかけていただいたのは、成長して周囲の人々を愛し、他者に仕える事ができるようになるためです。
残念ながら、私たちの子ども時代の記憶は、愛されたことよりも叱られたことなどが心に残っているものです。無理もありません。どんなに記憶力の良い人でも、乳幼児期の出来事はほとんど記憶していません。
例えば、お母さんの乳房に甘えていた頃の記憶はなくて、むりやりに乳離れさせられた記憶が幽かに残ります。子どもたちに物心がつき自我が目覚める頃、躾が始まります。すると、表面的には、両親は早くも子どもたちの対決相手です。
あの無条件で愛されていた日々が、記憶から欠落しているのは、まことに残念の極みです。けれども、全人格的に刻まれた愛の刻印が消え去ることはありません“三つ子の魂、百まで”と言われる所以です。
自分が愛された直接の記憶はなくても、少し周囲に目を向ければ、赤ちゃんがどんなに手の掛かるものか分かります。それにも拘わらず、どんなに愛されているかという事実は誰の目にも明らかです。人は、愛されなければ生きられないように造られています。私たちが今日あるということは、私たちが愛されてきたという雄弁な証です。
神の子たちについても同じことが言えます。使徒ヨハネは「私たちが神の子どもと呼ばれるために・・・事実、いま私たちは神の子どもです・・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」(Iヨハネ3:1)と回想しています。
私たちが神の子とされたのは、イエス・キリストの十字架の死によって罪が赦されたからです。神の子とされる為には、イエス様の死という大きな代価が払われました。これは、霊的な世界の事実ですが、人間の親子関係も同様です。親の側の愛や痛みがあって子は育ちます。
“親はなくても子は育つ”とは、親に恵まれなかった子どもへの励ましですが、同時に無責任な親への痛烈な批判かもしれません。
理由は様々ですが、時には、親に恵まれない子がいることも事実です。しかし、神の愛は、すべての人に平等です。人は、神様に愛されて生かされています。
そして、神の愛は、私達に愛することを命じます。イエス様は最後の晩餐の席で「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と語られました。
III. 生きることは愛すること
人が生きるということは、様々な表現が可能ですが、生きる事は愛することでもあります。神様が与えて下さった十戒を手がかりに考えてみます。
モーセは、人々が健全な生き方をすることができるように、神の名において十戒を日常生活の規範としました。
それは「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない・・・」という偶像礼拝の拒否に始まり「あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない」と、人倫の原則を教えました。
これは、禁止条項の形をとっていますが、この十戒の精神、それが意図していることは、初めから明白でした。神と隣人への愛が問われていたのです(申命記6:5)
イエス様も「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ・・・律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」(マタイ22:37-40)と言われました。
要するに、生きるには十戒の規範があり、それは換言すれば「神を愛し、隣人を愛する」ことです。イエス様も、人が生きる上で忘れてならないのは「神を愛し、隣人を愛する」ことだと念を押しています。ですから、良い人生とは、愛されることから始まって、愛することに発展するものです。
神を愛するとは「主が良くして下さったことを何一つ忘れず」(詩篇103:2)すべての恵みを心に留めて、謙って神に感謝することです。
この点で、私たちの先祖は、私たちよりも遙かに謙虚でした“八百万の神々”と言う表現が有ります。これは、神学的には無知の極みですが、心情的には、己を低くしている事が推測できます。昔の人は、超自然的なものに畏敬を感じたのです。
しかし、今日、人は偉くなったと錯覚しています“神は必要がなくなった”と考える人も多くなりました。これは、決して新しい思想ではありません。パウロは、2000年も前に「自分を神としている人々」(ピリピ3:19)の危うさを警告しています。
今日は、世をあげて神に代わるほど傲慢不遜な時代です。神と神の恵みに感謝することを忘れてはなりません。
隣人を愛するとは、隣人に仕えその人を生かすことです。神の愛は果てしなく広がり「あなたの敵を愛しなさい」とまで教えます。そして、私たちが真っ先に愛すべき隣人が誰であるかはあきらかです。神の戒めは、真っ先に「あなたの父と母を敬いなさい」と命じています。
高齢の方々は、体力の衰えを感じる事がございましょう。将来に不安を感じることがあったら思い起こして下さい。これまで皆さんを愛し守って下さった神様は、これからもいつも共におられます。皆さんが愛した人々が、今後、皆さんの慰めと力になります。何時でもイエス・キリストの父なる神様に信頼して下さい。