ルカの福音書説教

小林和夫師
第20回

7章-1:恵みに与る資格(イエスを驚かせた男)

ルカ福音書7章1〜10節

本日の聖句は、イエス様がローマの百人隊長の懇願を聞き入れ、彼のしもべを癒された物語です。私たちの知る限りでは、この百人隊長がイエス様の恵みを受けた最初の異邦人です。ですから、この物語は、神の恵の光が異邦人を訪れた記念碑的記録です。

ルカはイエス様の降誕物語を書き始めた時、祭司ザカリヤにイザヤ書を引用させ「異邦人を照らす啓示の光」(2:32)と、賛美させました。今やその光が、ローマの軍人の上に燦然と輝いています。異邦人であったルカは、押さえがたい感動を込めてこの物語を書きました(個人的な感情の動きに至るまで、マタイ福音書より詳細に描いている) ルカは福音書で2人(本日の主人公と十字架執行責任者・23:47)「使徒の働き」に3人(10:1では改宗者コルネリオ、22:26は無名、27:3,43のパウロをローマへ護送するユリウス)合わせて5人の百人隊長を登場させていますが、いずれも好意的な描写です。

“ローマ人の物語(全15巻)”を執筆された塩野七生さんも、ローマ軍における百人隊長の資質を高く評価し、次のように描写しています“彼らは、ことに臨んで冷静沈着、進退の判断をあやまたない”と、その練達ぶりを賞賛しています。ローマの百人隊長は、前進する勇気と後退する決断ができる人でした。要するに、二つとない生命の大切さを知っていたということです。日本では、平家物語の昔から“敵に後ろを見せることは恥”と考えられてきました(熊谷直実と平敦盛の故事)

本日の主人公・百人隊長に対して、ユダヤの長老たちが惜しみない賛辞を与えています。これは異例であり、特筆すべき場面です。しかし、私たちが心しなければならないのは、移りゆく世間の評価ではなく、永遠の主イエスがどのような価値判断をされるかということです。

I. 百人隊長のひととなり

2節に「ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべ(ドゥーロス)が、病気で死にかけていた」とあります。ドゥーロスは彼の社会的身分を表し、彼は金銭で売買される使い捨て奴隷にすぎません。しかし、7節には、百人隊長の直接表現が記されています。彼は、このしもべをパイスと呼んでいます。パイスは子、若者といった意味です。

ルカが「ドゥーロス」と「パイス」を使い分けたのには意味があります。このしもべの奴隷という社会的な身分にも拘わらず、百人隊長は息子のように可愛がり、頼みにしている事実を対比しています。彼の身分は奴隷ですが、百人隊長は彼を信頼し、その仕事ぶりを頼みにしていました。

どんな場合でも、権力は横暴になりやすいものですが、この主従関係は、血の通った温かいものであったことが伺えます。そして、百人隊長は、このしもべの病気を自分のことのように心配し、ユダヤ人の長老たちに使者になってもらいました。

聖書を開くと、息子の為にイエス様の所へ走った王室の役人がいます(ヨハネ4:47-53)会堂司ヤイロは12才の愛娘の為にイエス様に懇願しました(ルカ8:41)カナン人の母も娘のために、屈辱に耐えてイエス様にすがりました(マタイ15:22)ベタニヤのマリヤとマルタは、弟ラザロの為にイエス様に使者を遣わしました(ヨハネ11:1-3)友人をイエス様の膝元にかつぎ込んだ人々もいました。大事な家族や友人のために、人はいつでも懸命になります。

しかし、この百人隊長が謙って懇願したのは一介の奴隷のためでした。こんなケースが他にあったでしょうか。ルカは、一人の奴隷の為に心を砕く百人隊長を描き“ここには神の恵みがある。これこそ福音的な生き方だ”と、共感を覚えたに違いありません。

II. 長老たちの評価

百人隊長は、しもべを案じてイエス様に使者を送りました。頼まれてイエス様の所に来た長老たちは、いずれも誇り高い町の有力者たちでした。

彼らは喜んで使者に立ち、イエス様に訴えます「この人は、あなたにそうしていただく資格(アキシオス)のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です」と、賛辞を惜しみません。

カペナウムには、ローマ軍の駐留基地がありました。私も小中学生時代を基地の町(群馬県尾島町)で過ごしました。概して、基地の町は一触即発の危機をはらんでいます。日米安全保障条約のもとにある沖縄でも、市民の安全はしばしば条約相手によって脅かされています。昔から、駐留軍と市民が反目するのは避けがたいことでした。

しかし、ここでは、愛国的なユダヤの長老たちが、ローマの軍人である百人隊長を手放しで賞賛しています。これは異例なこと、占領地では滅多に見られない光景です。

長老達は「この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です」と、喜んで証言しています。

かつて、日本軍がアジアの各地で乱暴狼藉をしてきた事は悲しい事実です(韓国の提岩里では、村民を教会に閉じこめて焼き殺した記録があります)しかし、占領下の人々に親切に接した人もいました。戦後、現地の人々の証言で命を救われた人もいます。私の知人の中にも、覚悟していた処刑を現地の人の執り成しで免れた人がいます(彼は戦後、キリスト者になり同盟教団の信徒理事も務めました)

長老たちの評価は、いわば社会的な評価です。この世の尺度は、誰が見ても分かりやすいものです。社会的に貢献した人がいますと、世間は口を揃えて言います“彼はこんなにも愛を注ぎ、犠牲を払ったのだから、間違いなく資格が有る”と、太鼓判を押します。このような実績の前では、誰も疑いを挟むことはできません。しかし、評価の基準はそれだけでしょうか。

III. 百人隊長の自己評価

百人隊長自身は「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格(ヒカノス)は、私にはありません」と謙っています。これは「イエス様の靴の紐を解く値打ちもない」と証言した、バプテスマのヨハネを想起させます(3:16)

因みに、ルカは、長老達の使った「資格(アキシオス)」と百人隊長自身が用いた「資格(ヒカノス)」を、ギリシャ語で使い分けています。アキシオスには、当然の権利があるといったニュアンスが感じられ、ヒカノスにはそれが感じられません(さらに、百人隊長はアキシオーという動詞を用いて、自分の資格を自己否定している)

百人隊長が長老たちを使者に立てたのは、権威をかさに使いを走らせたのではありません。イエス様と面識がなかったからでもありません。自分が異邦人であることを認識し、神の恵みの契約から除外されている者であることを承知して、遠慮して仲保者を立てたのです。

この百人隊長は、賞賛に囲まれていても自分を見失いません。彼は、自分がこの町でした事を忘れたわけではありません。彼が身を置いているのは、論功行賞の厳しい軍人の世界です。彼がこれまでやってきた事は、治安の上でも、行政的にも立派な実績でした。

しかし、彼は、今自分が誰の前に立っているかを知っています。彼は、イエス様について多くを知らなかったでしょうが、一つのことを確信していました。全世界は、イエス様の望むままに動くという事実です。彼が「おことばをいただかせてください」と願ったのは、世界がイエス様のお言葉通りに従うことを確信していたからです。

彼は、イエス様に世界の創造者を見ていました。彼が自分の無資格を痛感したのは、自分が軍人として無能者だからではありません。全能の神の前にいる恐れとおののきです。人が傲慢不遜になるのは、神の前にいることを忘れる時です。

彼は決断的です。最初の使者を送り出して後、それさえも理にかなわないと考えるや速やかに改めました「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」

彼は、自分にはイエス様の前に立つ資格が無いと考え、イエス様にご足労をかけないようにと、友人を第二の使者として送りました。人は、自分の資格を売り込みたがるものですが、彼は主の前に無資格であることを告白して躊躇いません。

IV. イエス様の驚嘆

イエス様は、百人隊長の言づてを聞いて「驚かれ」群衆に向かって「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と、証言されました。

「驚き(サウマゾー)」という言葉は「畏れ」と一対で、イエス様を囲む人々が発するものでした。イエス様の言葉を聞き、その行為を目撃した者たちの感動表現です。

しかし、この驚き(サウマゾー)が、イエス様を主語として使われています(II回だけ)

最初にイエス様を驚かせたのは、郷里の人々の頑なな「不信仰」でした(マルコ6:6)神の子に出会い、神の恵みを見、神の子の声を聞いても信じられない人々の不信仰は、イエス様を驚かせました。この時の「驚き」は、主が経験したことのない異例なものです。不信仰に取り巻かれていたイエス様は、大胆に神を信頼する者がいたことに驚きました。

イエス様は、幾度も人々の不信仰を嘆かれましたが、百人隊長の単純明快な信仰に出会い、感動して「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と絶賛されました。この百人隊長に綽名を進呈します“主イエスを驚かせた男”です。

イエス様が、人々の信仰を明らさまに賞賛したのは2度だけです(あなたの信仰が、あなたを直した〔救った〕は、ルカ7:50、8:48、17:19、18:42などにも見られる)

この百人隊長への賞賛と、娘のために謙って「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(マタイ15:28)と、イエス様に取りすがったカナンの女性に対してです。2度とも誉められているのは異邦人でした。

アブラハムの子として生まれ、メシヤを待ち望んでいた人々は、イエス・キリストを受け入れることができないで、その不信仰がイエス様を驚かせました。しかし、契約の外側に置かれていたローマの軍人は、救いを期待する信仰によって主イエスを驚かせました。

イエス様は、たびたび「あとの者が先になり、先の者があとになる」(マタイ20:16)といわれましたが、考えさせられるお言葉です。

直前の6章で、イエス様は、主のみ言葉を人生の土台として人生を生きるように勧告しました。ルカは、この章の冒頭で、イエス様の言葉にすべてを委ねる男の生き方を描きました。私たちも、聞いて、信じている言葉に、しっかりと立たせていただきたいものです。

ヘブル書の著者は、11章の信仰列伝で「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神に求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブル11:6)と、勧告しています。