ルカの福音書説教

小林和夫師
第46回

9章-7:主の弟子たちの現実

ルカ福音書9章46〜46節

本日朗読していただいた聖書箇所に、三つの興味深い事柄が記されています。初めに「誰が一番偉いのか」と言う議論です。二つ目は「私たちの仲間ではない」という、冷やかな排他的主張です。最後に「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」という、独善的で危険な言葉です。

これら三つの言葉は、別々の状況下で発せられたものですが、このように並べて書かれているのには著者ルカの意図が有ると思います。三つ続けて読むと、普段は隠されている人の心がクローズアップされるようです。

「誰が一番偉いのか」いずれの場合でも一番と二番の差は紙一重です。それにも拘わらず、評価は金と銀に区別されますので、無関心ではいられません。

「私たちの仲間ではない」人は“敵か味方か”と、決めつけたがります。ここには、中庸を許さない心の険しさが露呈しています。

「彼らを焼き滅ぼしましょうか」“仲間ではない”という排他的な思いと“焼き滅ぼす”という凶暴な意思が隣り合わせになっています。

こんな危険な言葉が、イエス様の弟子の間で交わされていたのですから驚きです。そして、意外なのは、ヨハネがその中心人物だったということです。

「誰が一番偉いのか」というテーマ(最近は“ベストワンではなく、オンリーワンになる”という呼びかけを聞きます)これは、弟子たちの間で繰り返し論争されました。マルコの福音書は「ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った・・・『あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください』」(マルコ10:35-37)と、願った場面を記しています。

ヤコブとヨハネは、仲間を出し抜いたわけです。これが発端となり、弟子たちの間に激しい論争が生じました。争いの火種はヤコブとヨハネでしたが、マタイの福音書は、彼らの母親が絡んでいることを物語っています(マタイ20:20)

49節で「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです」と、言ったのもヨハネでした。

54節で「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と、息巻いたのもヤコブとヨハネでした。こうして並べると、人物像が彷彿されます。

ヤコブとヨハネは、ペテロと共に他の弟子たちよりも主の御傍近くで仕えたのは事実です。ヤイロの娘の死の床で(ルカ8:51)また、変貌山 で(ルカ9:29)十字架前夜にはゲッセマネの園でも(マルコ14:33)彼らは主イエスと行動を共にしました。

その理由は定かでありませんが、重要な局面を迎えた時、ペテロとヤコブとヨハネが弟子たちを代表していたことは確かです。それが彼らの自負心となり、49節や54節に見られる独善的な発言になったのかも知れません。

ヨハネは興味深い男です。彼の書いた福音書には、彼自身の名前が一度も記されていません(ヨハネの福音書に頻繁に登場するのはバプテスマのヨハネであり、イエスの弟子ヨハネではない)ヨハネの福音書には、弟子たちの名簿一覧さえもありません。彼は、自分の名が避けられない時には「イエスが愛された弟子」(13:23、19:26、20:2、21:7、20)と書いて、憚りませんでした。

彼の書いた福音書や手紙は「愛(アガペー)愛する(アガパオー)」という言葉を繰り返します(ヨハネは93回、他の三福音書合わせて28回)

後世の人は、彼を“愛の使徒”と呼び、私たちもその通りだと思います。けれども、それは生来のものではなかったようです。

マルコ福音書の弟子名簿には「イエスは・・・ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた」(マルコ3:17)と、記されています。若き日の血気盛んなヤコブとヨハネの姿は、イエス様の目にも「雷の子」と映っていたようです。

パウロは「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(IIコリント5:17)と記しています。ヨハネはキリストに出会い、品格と人生を新たにされたようです。彼は晩年「私たちはキリストに似た者となることがわかっています」(Iヨハネ3:2)と書いています。

イエス様は、ヨハネだけでなく、私たちをも新たに造り変えて下さいます。これは、私たちの望みであり祈りです。以下に、弟子たちを巻き込んだ三つのできごとを瞥見します。

I. 誰が一番偉いのか

大工さんが使う道具に、L字型の物差し(さしがね)があります。これは、表と裏の目盛りが違います。裏目盛りは、表のおよそ1.4倍(約ルート2倍)になっていて、大変便利です。丸太の断面に裏メモリを当てると、どの位の角材がとれるか即座に判ります。また、直角に曲げてあるので、屋根の勾配など角度のあるものに対応できる優れモノです。誰が作ったのかは存じませんが、大工さんにはなくてはならない物差しです。

しかし、物差しは当て方を間違えると、時には取り返しのつかない事になります。イエス様は「誰が一番偉いのか」という弟子たちの問いについて、偉大性は否定しませんでしたが、偉大性を計る物差しの誤りについて正されました。

主イエスは「異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます・・・あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マルコ10:43)と、教えています。主が人となられたのは「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(マルコ10:45)でした。

“権力は腐敗する”と言われます。実際、権力を振りかざしながら屈辱にまみれていく者が後を断ちません。それが、この世の変わらない姿です。ですから、イエス様の弟子たちと共に、私たちも偉大性の物差しについて、主に聞かなければなりません(ルカ22:24でも繰り返している)

 内村鑑三はさすがです「後世への最大遺物」という講演で、真の偉大性には、すべての人が参加できなければならないと論じています。誰にも遺すことのできる遺物を、彼は“勇ましい高尚な生涯”と呼んで、称揚しています。それは、神支配と希望を信じる事に基づきます。

II. 不寛容について

49節には、ヨハネの気概が伺えます「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです」と、得意げに報告しています。

ヨハネには、自分の行動に自負する所がありました。主に報告した時、ほめてもらえると期待していたようですが、主は「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」と言われ、ヨハネに寛容を求めました。

イエス様が、いつも無条件で寛容を示したわけではありません。偽善を装う律法学者たちに対しては、遠慮することなく痛烈な批判を下しました(マタイ23章)そのような言葉は痛快で、ボアネルゲと呼ばれた若者に強烈な印象を与えたことでしょう。

ヨハネにしてみれば“主の名を勝手に語るな”と、偽ブランドを排除したつもりです。責任の所在をはっきりさせたいとの主張です。

人は、神が与えて下さる賜物やチャンスがそれぞれ異なることを認めつつも、他人に自分と同じ思想や行動を求める傾向があります。キリストの教会も、この点で例外ではありません。歴史的な異端狩りや魔女裁判、宗教戦争が行われたのはこのためです。

神の教会には派閥争いがあってはなりません。手段・方法の違いこそ、神の多種多様な恵みと知恵に適っており、教会の豊かさです。明らかな異端との協調は出来ませんが、教派の伝統的な違いや個性の違いには寛容でありたいものです。

パウロは、宣教への情熱と他者への寛容が調和した人でした。彼はローマの獄中に囚われていた時、ピりピ教会に書きました「彼らは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」(ピリピ1:17-18)パウロは、寛容の極限を示しています。

III. 怒りについて

最後は、イエス様がエルサレムに向かうのを喜ばないサマリヤ人の問題です。ユダヤ人とサマリヤ人は中が悪く、互いに軽蔑していましたが、イエス様は隔てなく救いの手を差し伸べました(ヨハネ4章)

この日、ヨハネの目には、イエス様を拒んだサマリヤ人たちが、赦し難いほど恩知らずに見えたようです。彼は激怒し「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と、イエス様に伺いをたてます。ある写本は“エリヤがしたように”と、記しています。ヨハネの心中には、エリヤを気取った義憤が激しく沸騰していたようです。けれども、主の目の前には、未だ憐れみも赦しも知らない弟子がいるに過ぎません。

聖書の教えは「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1:20)と明解です。そして、「憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ2:13)と、教えています。

人が義憤に駆られて、暴走することがあるとするなら、こんなに危険なことはありません。スタートは、正義感、潔癖感から始まったとしても、怒りは炎のように激しく燃え盛り、速やかにコントロールが不能になります。

主イエスは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教えています。人は義憤と言いますが、罪深い人間の怒りは、神の義を全うすることはできません。

若き日の主の弟子の姿に、私たち自身の未熟さを見つつ、成長させて下さる神を仰ぎたいものです。

ボアネルゲ(雷の子)と綽名されたヨハネが、後世「愛の使徒」と呼ばれるようになった姿は、私たちの望みです。