ルカの福音書説教

小林和夫師
第27回

1章-4:信じる者の幸い

ルカ福音書1章39〜55節

本日の聖句は、受胎告知に続くものです。御使いガブリエルは、ユダヤの寒村・ナザレを訪れ、乙女マリヤにメシヤの母となることを告げました。

遠い昔から、イスラエルの敬虔な人々は救い主を待ち望んできました「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」これはユダが、アラムやアッシリアの脅威に怯えていた時のイザヤ預言ですが、ファンタジスティックな響きさえあります。しかし、いざ実現となれば、当事者には過酷な使命が負わされます。

ルカが描くマリヤは、自分に語られた御使いの言葉を理解できません。彼女は恐れ怯えています。ガブリエルはマリヤを懇ろに説得しますが、止めは伝家の宝刀でした「神にとって不可能なことは一つもありません」主がアブラハムに語られた言葉の繰り返しです。

するとマリヤの心は目覚め「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、わが身を委ねました。これは信仰の言葉ですが“喜び勇んで”と言うよりも“悲壮な決断”だった思います。

受胎告知の場面は、多くの芸術家が取り組んで来ました。就中“レオナルド・ダ・ビンチの受胎告知”は、アヌンチオの最高傑作だと言われます。見事な芸術作品であることに異論はありませんが、私にはルカが語る受胎告知を描いているとは思えません。あの絵の中では、御使いガブリエルが跪き、マリヤは女王のように昂然と見下ろしています。

私は、途方にくれているマリヤを描いたフラ・アンジェリコの素朴な作品に心を魅かれます。マリヤは「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ7:14)という預言を信じただけでなく、この大事件を我とわが身に受け入れました。マリヤにとって、重荷(カーボード)であり、栄光(カーボード)でもあります。

I. 孤独なマリヤの慰め

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:1-6)しかし、私たちの現実は、信仰と不信仰との間を振り子のように揺れ動くことがあります。そんな時、私たちには励ます友・慰める友が必要です「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣く」(ローマ12:15)聖徒の交わりが必要です。

マリヤは自分の耳で聞いた受胎の告知、自分の身に起こり始める変化を誰と分かち合ったらよいのでしょう。彼女自身が恐れ、容易に受け入れられなかった受胎の秘密を、誰が親身になって受け止めてくれるでしょう。

娘たちの不安を受け止める身近な助けは、多くの場合母親の役割ですが、聖書はマリヤの母について一度も言及していません。

許婚のヨセフは善良な人ですが、マリヤの懐妊を知ると心を騒がせました。ヨセフがマリヤの秘密を理解するのは、夢で示を受けた後のことです。

孤独なマリヤ。彼女に唯ひとつ開かれていた慰めの場は、祭司ザカリヤの妻エリサベツとの交わりにありました。

マリヤは、わが身の一大事をエリサベツに打ち明けることにしました。エリサベツは高齢ですが、奇跡的にヨハネを懐妊して6カ月目です。おそらく、マリヤの身に起こった事は、エリサベツを外にして、誰も受け止めることができなかったでしょう。

エリサベツこそ、主がマリヤのために備えられた相応しい助けです。憐み深い神は、必ずこのような助けを備えて下さいます。私たちも自らを主の用に備えたいものです。

II. エリサベツの祝福

マリヤは、早速ザカリヤの家に急ぎ、エリサベツに挨拶しました(アスパゾマイ)

挨拶と言えば、29節でガマリエルの挨拶を受けた時「マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」ものです。そのマリヤが今「ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつ」しています。

「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされ」ました。美しくも力強い表現です。

エリサベツがマリヤに語りかけた祝福の言葉を聞いてください。彼女は開口一番「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています」

エリサベツは、マリヤの受胎を初めから理解し、一緒に喜んでいます「あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました」彼女は名状しがたい感動を、二つとない言葉で言い表しました。

さらにエリサベツは、マリヤを祝福して言います「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」

人が苦悩するのは、信じるきることができない時です。ちょうどこの時、エリサベツの夫ザカリヤは不信仰の代償を払っていました。彼は、御使いの顕現に驚き圧倒され、信じることが後回しになり、その結果、一時的に言葉を発する事ができませんでした。

それは、祭司ザカリヤとエリサベツ夫妻の悲しい体験です。そんな体験から発せられたのが「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と言う、エリサベツの言葉です。憧憬のこめられた祝福の言葉です。

III. マリヤの讃歌

マリヤは、エリサベツの祝福によって啓発されたようです。彼女の口から賛美があふれ出てきました。これがマリヤ賛歌(マグニフィカート)です。サムエルの母ハンナの歌(Iサムエル2:1:10)を連想させますが、更に洗練された格調高いものです。

ハンナは神の恵を讃え、我が身が恥辱から解放された喜びを歌いました。マリヤの賛歌は、それより遥かに壮大です「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私達の先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです」マリヤは、神の永遠の経綸にまで目を留めています。

マリヤの賛美には、最早ためらいも悲壮感もありません。彼女は、自分の役割を確信して喜んでいます。もう一度、マリヤの讃歌を聞いてください。

「主は、この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」このような感動がなければ、マリヤは処女懐妊という重圧に耐えられなかったでしょう。

マリヤは神を「わが救い主なる神」と呼び、民族が待ち望んできた救いの訪れを確信しました。彼女の賛歌は、個人的な喜びや感謝に留まりません。民族の再興のみならず、全世界的な広がりを見せています「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました」更に「私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです」と、約束の実現を感謝します。

神がアブラハムに与えた永遠の契約は、信じる者にとって古びることがありません。イエス様も復活の後、信じることの大切さをトマスに言われました「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と。マリヤの真骨頂は、神を信じ抜くことにありました。

IV. 信じる者の幸せ

最後に、マリヤの幸せについて考えてみましょう。御使いガブリエルは「おめでとう(喜べ)恵まれた方。主があなたとともにおられます」と、マリヤを祝福しました。エリサベツも「あなたは女の中の祝福された方・・・主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と祝福しています。マリヤ自身も「これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と、神を賛美しました。

ある時、一人の女性がイエス様に近づいてきて感嘆の声を上げました「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」(ルカ11:27)平たく言い換えれば“あなたのような方を生んだ、あなたのお母さんが羨ましい”ということです。

しかし、実際には、受胎告知を受けた日からマリヤの苦しみが始まりました。未婚のマリヤのお腹が目立つようになると、人々の視線は厳しいものになります。婚約者のヨセフでさえ疑心暗鬼に駆られ、密かに婚約を解消しようとしました。マリヤもヨセフも、それぞれ苦悩の道を歩ませられたのです(マタイ1:19-20)

出産は、ローマ帝国の人口調査と重なり、身重の体でベツレヘムまで旅を余儀なくされました。宿は混み、客間に余地がなく、家畜小屋での出産でした。

東方の博士や羊飼いの来訪は、慰めに満ちた温かい思い出ですが、束の間、ヘロデの虐殺を逃れるため、エジプトへ逃避行です(マタイ2:12-)

イエス様が宣教活動を始めると、食する暇もうち忘れ、その働きは尋常ではありません。周囲の者は、気が狂ったと誤解するほどでした。イエス様を案じて迎えの門口に立つマリヤの胸中を思いやってください(マルコ3:21、30-31)イエス様は十字架への道をまっすぐに進まれました。そこには避けられない死が待ちかまえています。

テレビ・ニュースは、事故現場で“夫を返せ、息子を返せ”と、泣き叫ぶ女性たちの苦悩を報じます。どんなに叫んでも返って来ることはありませんが、怒りと悲しみ、憤りは尽きることがありません。しかし、マリヤは不正を糾弾することも出来ません。これでもマリヤは幸せだったのでしょうか。人が羨むほど幸せな女性でしたか。

若き日のミケランジェロの刻んだローマのピエタは、美しい作品ですがマリヤの深い悲しみが見る者の心を打ちます。そのミケランジェロは老いて開眼しました。最晩年に着手したロンダニーニのピエタは未完成ですが、新しい境地を開きました。彼は、マリヤがイエスを抱きかかえる構図ではなく、イエスに背負われているマリヤの姿を刻みました。

ミケランジェロは、十字架の奥義に到達したようです。十字架の死は、別離をもたらすものではなく、永遠の結びつきと平安を生みだすものです。あの作品は、イエス様とマリヤが一体化しています。マリヤはイエス様を返してもらいました。

カトリック教会のラヴァルト神父から聞いたことがあります“うちの教会では、クリスマスにはマリヤ役の取り合いで、女の子たちが喧嘩します”と。

今日、マリヤは、幸いこのうえない人と考えられていますが、マリヤの幸せは、苦難の道を辿りながら到達した幸せです。或いは、神の言葉に望みをかけた、信じる者の幸いです。

イエス様は、マリヤを羨んだ女性に言われました「幸いなのは、神の言葉を聞いて、それを守る人たちです」(ルカ11:28)