ルカの福音書説教

小林和夫師
第30回

2章-2:神に栄光、人に平和

ルカ福音書2章8〜14節

クリスマス(イエス様誕生)おめでとうございます。

クリスマスの音信は神の国のニュース、メッセンジャーは天使です。このみ使いが最初に向かったのは、ベツレヘムの野に佇む羊飼いたちの所でした。

み使いは「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と伝えています。すると、これに続いて天の軍勢のコーラスが夜空に響き渡りました「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」

人間の最大の罪は、造り主である神を蔑にしていることです。自分が神に造られたことを知っている人は“人間はみな兄弟”と考えます。しかし、神様を蔑にする人が他人を尊重することはできません。そこから憎しみや争いが生じます。

み使いの賛美は「神に栄光、人に平和」です。これこそ、神の子が人となられた目的です。「神に栄光、人に平和」を実現してくださるのは、人の子としてお生まれくださった「救い主キリスト」です。

神が人となる。これは、想像もつかないできごとですが、偶発的で、突発的なできごとではありません。神が予め預言者たちを通して約束し、敬虔な人々が待ち望んできた希望です。クリスマスは、世界が久しく待ち望んできた神の約束の成就です。


イエス様が教えてくださった主の祈りは「御名が崇められ・・・御国が来ますように・・・日毎の糧を・・・罪の赦し・・・へりくだり」など、食物や健康を求め、家庭内の平和や子供たちの健全な成長を求めます。人生の岐路に立っては、決断する知恵を求め、社会に目を向けては、正義の実現を求めます。国際的には、虐げられた人々、戦禍と貧困と病苦の下に置かれている人々の解放を祈ります。

その中で、今日は「神に栄光、人に平和」の一点に絞って考えてみます。先ず、言葉の順序は「神に栄光」が「人に平和」より先立つことを教えています。神に栄光(神への畏れ)が帰せられなければ、高邁な理想も命がけの労苦も虚しいからです。

私たちが、日々の生活の中で求めて止まないのは平和です。そして、地上の平和の根源は、神を畏れることにあります。預言者イザヤが、救い主を平和の君と呼んだのは見事な洞察でした。救い主の贖いが、私たちの罪を赦し神との平和を回復してくださいます(ローマ5:1)

クリスマスは、救い主をいただいた恩恵の日です。そして、恩恵を賜った者たちの応答は「人に平和」を告げる責務を負っています。主は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれる」(マタイ5:9)と言われました。

I. 羊飼いへの啓示

み使がイエス様の誕生を真先に伝えたのは、ベツレヘムの羊飼たちでした。彼らはその夜、羊の番をして野宿をしていました。夜は、人々が一日の疲れを癒すために自宅で寛ぎ時です。羊飼いは寒さや眠さに耐え、盗賊や猛獣たちの襲撃を警戒して、懸命に羊の群れを見守っていたようです。

神は福音を聞く最初の人として、なぜ無名の羊飼たちを選んだのでしょう。おそらく、この羊飼たちが「平和の福音」に一番飢え渇いていたからでしょう。

平和や平安は掛替えのない宝物ですが、きわめて傷つき壊れやすいものです。

貧しさや病気が、私たちの心から平和を奪い取ります。人は、差別や偏見にさらされると、心の平安を失います。怒りや憎しみに駆られると、心はザワメキ、自ら平和を投げ捨てて立ち上がります。妬みの感情が起これば心が騒ぎ、平安ではいられません。社会の不義や不公正にも苛立ちを覚えます。心から平和や正義を愛する人ほど、踏みにじられた平和に傷つくものです。

羊飼たちは、社会の底辺に置かれて、自己を主張する手段も持たなかったと思われます。彼らのような人々が、誰よりも平和に飢え渇き、心から平和を待ち望んでいたのではないでしょう。神は、これらの人々の声なき声、魂の叫びを聞きのがす筈がありません。

これは、私にイエス様が語られた天国のたとえ話を想起させます。マタイの福音書に、ぶどう園の主人が労務者を雇い入れる例え話があります(20:1-16)勤勉な主人は、朝早く出かけて、意欲的な労働者を雇います。彼は、9時ごろにも、さらに12時と午後の3時にも、同様にしました。そして、夕闇せまる5時にも、なお人を求めて出かけ、一日働き場を得られなかった者を雇いました。

特筆すべきは、賃金の支払い方です。主人は、監督に「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい」と命じます。この心遣いに、計り知れない思いやりを見ることができます。

夕方一時間ほどしか働かなかった者が1デナリの報酬を受けているのを見ると“一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱した”と、自負する者たちは早速皮算用しました“自分たちには特別な手当てがあって当然だ”と、勝手に期待を広げました。

彼らの身勝手な卑しい期待が外れたとき、彼らは主人に不満を漏らしました。すると、主人の返答は真に慈悲深いものでした「私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけあげたいのです」と言われました。こんな主人が何処か外にいるでしょうか。

主人は、夕方まで職に着けなかった者を心に留められたのです。殆ど丸一日を、虚しく不安の中で過ごした人々の心情を憐れまれたのです。彼らが支払いを最後まで待たされるなら、待っている間もどんなに心を悩ますことか、主人は知っていました。賃金の支払い時にさえも不安を持つ人々がいる事を、主人は知っており憐れんだのです(世の現実)

功利主義的社会では、決して見ることのできない神のあわれみ深い手法です。神が真先に音信を受ける者として羊飼いを選んだのも、おそらく憐れみからでたことでしょう。

II. みどり子はしるしです

この世は、小さい者、最後の者、とるに足らない者を侮ります。しかし、神は決して彼らをお忘れになりません。主は、人の心に去来する憂いや不安を良く知り、深く憐れんでくださいます。これは、神を信頼し、神に望みを置く者の慰めです。

音信を受けた羊飼たちの対応に目を留めてください。御使いが羊飼に語ったのは「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどり子を見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」と、明解な福音です。

羊飼いたちが、早速出かけて発見したしるしは「飼葉桶に寝ているみどり子」でした。彼らは、サムソンのように逞しい男を発見したのではありません。若き日のダビデのように頼もしい美少年を発見したのでもありません。マリヤとヨセフの保護を必要とする嬰児でした。

「飼葉桶に寝ているみどり子」は、神が約束して下さった救い主の到来を告げますが、いまだ未完成です。

それは、ほんの小さな始まりにすぎません。途中でどんなハプニングが待ち受けているか予測もつきません。しかし、すべては、ここから始まります。

世間の人々が祝うのは、一夜のクリスマスです。一夜明ければ、忘年会に突入します。聖書が伝えるクリスマスは、偉大な救いへの最初の小さな一歩です。ここから始まって、私たちを無限の神の恵と光の中へ導き入れます。

羊飼たちは「飼葉桶に寝ているみどり子」のしるしを正しく受け止めました。彼らは、闇の中に輝き始めた一条の光を見たのです。未だ真昼の輝きになってはいませんが、彼らは光が輝き始めた事を知りました。

むかし、預言者エリヤが雨を求めて祈ったとき、彼は小さな手ほどの雲を見て、やがて来る豪雨を感じ取ったことがありました。

羊飼いたちも「飼葉桶に寝ているみどり子」に、平和の訪れを確信したようです。このように、神の言葉に信頼するのが信仰です。彼らは「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、さんびしながら帰って」行きました。

大切な判断基準は、自分の期待通りか否かではありません。神の語られた言葉通りか否か、という点です。

私たちも、アドベントを経てクリスマスを迎えました。これは、終わりではなく新しい始まりです。クリスマスの精神は、小さな光、小さな可能性の中に、やがて花開く喜びや希望を見いだす事です。それが、私たちを平和へと、さらに完全な救いへと導くことになります。どんな小さなチャンスも、神が備えて下さるものとして受け止める人は幸いです。そのような人の人生は、恵と可能性に満ちています。

私たちが恐れや嘆きをあとにして、平和と喜びを発見し、或いは造りだしていくなら、その時こそ、神の栄光は輝くことでしょう。平和の君が共にいるのですから「神に栄光、人に平和」を求め続けて生きたいものです。