ルカの福音書説教

小林和夫師
第39回

8章-7:恐れるな、ただ信ぜよ

ルカ福音書8章49〜56節

イースターおめでとうございます。イエス様は二千年前、ラザロの墓で「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と、宣言されました。これは、今日の私たちキリスト者にも慰め・希望です。十字架で死に、約束通り三日目に復活されたイエス様は、私たちの復活の初穂です。やがて、私たちもキリストの復活に続きます。本日の聖句は、復活の前味を語るものです。

前回は、私たちの表現をすれば「12年間、長血をわずらった女」を、取り上げました。イエス様流に言い換えると「信仰によって救われた女性」の物語でした。

あれは、イエス様が、会堂管理者ヤイロに求められて彼の家に向かう途中の出来事でした。かの女性にとっては幸運な巡り合わせでした。しかし、イエス様があの女性に関わっておられた時、ヤイロは苛立ちと焦りを感じたことでしょう(突然わり込んで来た人のために待たされるほどイライラさせられることはない)

ヤイロの場合、娘の病状は一刻を争うものでした。実際、主がまだ話しておられる間に、会堂管理者の家から人が来て「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません」と、悲しい報告がもたらされています。

ヤイロにすれば、愛娘のためになりふり構わずイエス様に跪き、お出で戴くことになりました。それなのに、途中で思わぬ邪魔がはいり、手遅れになってしまったのです。この悲しみと怒りを何処へ持っていったらよいのでしょう。

イエス様はたった今、割り込んできたあの女性に「安心して行きなさい」と、言われたばかりです。それは、彼女を12年ぶりに肉体と精神の牢獄から解放する宣言でした。傍にいたヤイロもその声を耳にしました。ヤイロは、その言葉に励まされたことでしょう。その言葉の余韻は、未だヤイロの耳に残っていたと思います。それなのに事態は一変し、彼女に与えられた「安心」が、ヤイロの希望を奪い取ったかのような成り行きです。

イエス様に親しく仕えたベタニヤ村のマルタとマリヤも、弟ラザロが重病に陥った時、イエス様に迎えの使者を送りました(ヨハネ11:3)その時も主は遅れ、到着した時には、ラザロは死後4日も経っていました。マルタもマリヤもイエス様の顔を見るなり、全く同じ言葉で無念の思いをぶつけています(ヨハネ11:21,32)

「主よ。もしここにいてくださったなら(エイ・エース・ホーデ)私の兄弟は死ななかったでしょうに」と、彼女らは嘆きました。これは絶望の捨て台詞です。彼女たちは懸命にイエス様を頼みにしてきた人たちです。主に信頼して救われてきました。しかし、死が割り込んで来ては、最早どうすることもできません。嘆くばかりです。

死の現実を前にして、人には成す術がありません。泣くだけ泣いて、潔く諦める外ありません。イスラエルは昔から、死とその世界を「飽くことを知らないもの」(箴言30:15-16)と、数えて来ました。死は、まさしく人生最後の貪欲な敵です。

I. 恐れないで、ただ信じなさい

イエス様は、長く病んできた女性を憐れみ癒されました。続いてヤイロの娘の死と向かい合うことになりました。使いの知らせを受けて動転するヤイロに、主イエスは間髪をいれず語りかけます「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります(メー・ホボウ、モノン・ピステュウソン、カイ・ソーセーセタイ)」簡潔で力強い言葉です。ヤイロの心には憂いが生じましたが、未だ広がらないうちに、主イエスが先手を取られた光景が目に浮かびます。

しかし、自分の家に戻ったヤイロが最初に目にしたのは「笛吹く者たちや騒いでいる群衆」(マタイ9:23)の姿でした“ユダヤ人の習慣によれば、死者が出るとどんなに貧しい家でも、少なくとも二人の笛吹きを雇った”(アルフレッド・プラマー)と言われます。ですから、我が家から聞こえる笛の音は、まさしく娘の死を告げるものです。

ヤイロの家では、早くも葬儀の準備が始まっていました。今や、ヤイロは、我が家の扉を開ける前に、すべての希望を捨てることが求められています。

“神曲”を書いたダンテは、地獄篇の冒頭で、地獄の門柱に有名な言葉を刻みました“われをくぐりて 汝らは入る なげきの町に・・・一切の望みを捨てよ 汝ら われをくぐる者”(寿岳文章訳)これは絶望を宣言する銘です。この表現を借りれば、ヤイロにとって、愛すべき我が家の扉は地獄の門に変わっていました。

この時でも、ヤイロが聞くべきは主イエスの言葉です「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」これは、傍で聞いた者たちが嘲ったように、途方もない言葉でしょうか。或いは、起死回生の言葉となるのでしょうか。

福音書の著者ルカは、これまで主イエスの御力を書き並べてきました。主は、最初に嵐のガリラヤ湖を静め、続いて絶望の淵に喘いでいた「悪霊につかれた男」を解き放ち、そして、今しがた12年間も病苦と貧困と偏見に捕らわれていた女性を救い出されたばかりです。

その主イエスの前に、今立ちはだかっているのは、あらゆるものを待ったなしで飲み尽くしてきた敵、貪欲な死です。生と死の対決です。

私たちには、可能と不可能の両極があり、すべての事柄はその中間にあります。何か事が生じると、それがどちらの極に近いかを見極めます。諦めるなとは言いますが“不可能なことをいつまでも徒に引きずっていても仕方がない”と、早々に諦めることがあります。この時も、少女の死を受け入れた人々は早くも諦めきっていました。

ルカは、このでき事を通して、イエス様には難易度という概念がない(易しい事と難しい事の区別がない)ことを教えています。外科医には、ガンの手術と盲腸の手術は大違いですが、主イエスには、嵐の海を鎮めることも、霊界を支配することも、生と死を扱うことにも変わりがありません。イエス・キリストは全能の神です。ルカはこのでき事を記して、イエス様の力には限界がないことを証言しています。

II. 子どもよ、起きなさい

人々は“手遅れだ”といいます。その通りです。彼らには手遅れなのです。私たちにも同様に感じられます。しかし、ルカは、福音書の初めにマリヤの処女降誕を記した時、イスラエルの歴史的信仰告白を掲げました「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)これは、信仰の原点回帰を求めるチャレンジです。

イエス様は、この場に臨んでたじろぎません「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」と言われます。周囲の連中はこれを聞いてあざ笑いました。このような信仰と不信仰の対立は、このとき始まったものではありません。旧約聖書を開くなら、この対立こそ神の民イスラエルの歴史だった事が明らかです。

預言者エリヤは、優柔不断な同胞に対して「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」(I列王18:21)と、民衆に決断を迫ったことがあります。しかし、あの時も「民は一言もエリヤに答えなかった」のです。

預言者エレミヤは「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ・・・主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように」(エレミヤ17:5-7)と、警告しました。ヘブル語は、イブタッハ・バーアーダームか、イブタッハ・バーヤーウェか、即ち、アダムかヤーウェか、土塊か創造者かという問いです。

私たちはどちら側にいますか。全能の神に信頼して期待する側ですか。或いは、自分と同類の朽ち行く人間の経験や知識に身を委ねて束縛されているのでしょうか。

イエス様は少女の手をとり「子どもよ。起きなさい」と、命じます。すると「娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた」 ヤイロの娘は、死から生命に呼び戻されました。イエス様の独壇場です。

III. だれにも話さないように

ところで、これらのことを初めから見ていた「両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられ」ました。

先の39節では、イエス様が悪霊から解放された人に向かって「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と、命ぜられたばかりです。 このイエス様の沈黙命令には、聖書学者たちの様々な説明がありますが、私自身は未だ十分納得できる説明を見いだしていません。

今、申し上げられるのは、主イエスが奇跡をなさった後で「誰にも話さないように」と命じたのは、この時だけではありません。不思議なことですが、主イエスは多くの場合、沈黙を求められました。ライ病人をきよめた時も(マタイ8:4)盲人の目を開かれた時も(マタイ9:30)その他、多くの病人を癒された時も(マタイ12:16)沈黙を命じました。

ペテロがイエス様に向かって「あなたこそ生ける神の子キリストです」と、信仰を告白した時でさえも、主イエスは「このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられ」(ルカ9:20)ました。

イエス様が復活後、最後に弟子たちに語られたのは「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)という、お言葉です。ですから私たちは、いつでも主の御業を語り伝えるのが最優先だと考えがちです。しかし、主イエスはこの時「だれにも話さないように命じられ」ました。

ですから、39節の「神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と、いう言葉が例外的だったのです。

これを解く唯一の手がかりは「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」(マタイ17:9)と言われた、主イエスの言葉です。

主イエスは、十字架の死を逆転させる圧倒的な勝利、栄光の復活までは、言葉の証言が無力な事をご存じでした。人の感動や熱情は純粋でも、復活の裏付けがなければ福音は無力です。パウロは、そのことを痛感していました。ですから「キリストが復活されなかったのなら・・・あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」と、書いています(Iコリント15:14)


イースターおめでとうございます。主イエスの復活に感謝しましょう。私たちも、主イエスの復活の後にペンテコステを迎えた弟子たちの末裔に繋がっています。

主の御名を賛美しましょう「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」