ルカの福音書説教

小林和夫師
第14回

5章-5:新しいぶどう酒

ルカ福音書5章33〜39節

前回、取税人マタイが、イエス様の呼びかけに応えて新しい人生に踏み出した経緯を学びました。マタイは、イエス様に対する感謝を込めて大宴会を設け、彼の仕事仲間を招き、キリストの弟子となることを明らかにしました。この様子を見ていたパリサイ人たちは、好機が訪れたとばかり、早速、嘲りの声を上げました。

30節を見ると。彼らは「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と罵り、苛立を隠そうともしません。彼らの暴言は、直接マタイに向けられたものではなく、イエス様と弟子たちに向けられました。パリサイ人たちは、気位が高く、取税人を卑しめて口もきかなかったからです。

すると、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と、不朽の名セリフを残されました。心ない人々の言葉は、イエス様を鞭打ちますが、主イエスの打たれた傷口からは、世界を慰め癒す言葉が迸り出ます。聖書の醍醐味です。

彼らは執念深い連中ですから少しも怯みません。さらにイエス様に言い募りました。それが33節の言葉です「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」これは、議場で今なお繰り返されている論点のすり替えです。

一般的に言うと、ユダヤ人の信心深い生活とは、身辺を、あらゆる汚れと考えられるものから守ることでした。例えば、市場から帰ると手を洗い浄めます。罪人と見なした取税人たちと同席することも避けます。

また、定期的に断食をし、神に祈り、貧しい人々に施しをします(マタイ6:1-18)殊に、断食は自己犠牲を伴いますので、敬虔の尺度と考えられていました。

彼らの謹厳な生活基準から見れば、イエス様の周囲にわき起こる、喜びに溢れた陽気な笑い声は、不謹慎に見えました。イエス様と弟子たちの振る舞いは、彼らの目には“飲んだり食べたりして、はしたない、はしゃぎすぎだ”と映ったようです。

この時もイエス様は「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか」と切り替えされました。

イエス様は、ご自分を取り囲む人々との交わりを、結婚の披露宴にたとえています。ここで言う花婿とは、紛れもなくイエス様ご自身のことを指しています。イエス様が共におられるということは、弟子たちにとって(もちろん、私たちにとっても)結婚祝いの席にいることに等しいのです。そこでは、しか爪らしい断食よりも、陽気に楽しく飲み食いする方が相応しいのは明らかです。

素晴らしいことではありませんか。キリスト教信仰の核心は「神が私たちと共におられる」ことです。これは、謹厳ではあるが陰気臭いものではなく、喜びと歌声に満ちたものです。教会でも家でも、皆さんの居られる所に感謝と喜びの声を響かせて下さい。

I. 二つのたとえ

おそらく、ユダヤ人の中でも、パリサイ人たちほど律法に誠実に応えようとした人々は、他に類を見ることができないと思います。彼らは、律法を微にいり細にわたり検討を重ね、完全を目指しました。大変な努力です。使徒パウロも、かつてはそのような生き方に誇りを抱いていました(ピリピ3:6)

しかし、イエス様は、彼らに向かい「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです」(マタイ23:15)と厳しく警告されました。

惜しむらくは、彼らが律法の字句に拘泥する余り、律法を賜った神の意図を見失ったことです。本来、律法の精神は愛であり人を生かすものです。

しかし、律法主義の現実は、束縛だけを残しました。彼らは、決して無知な人々ではありませんが、調和を図ることが不得手だったようです。

今日でも法律の運用は極めて難しいものです(地裁、高裁、最高裁の判断が異なるのはそのためです)血も涙もないと言われるような判断は、受け入れられません。また、法の番人が融通を利かせ過ぎても秩序が失われます。

ここでイエス様は、誰にでも理解できる日常的なたとえを用いました「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするような事はしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです」また「だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます」と。

使い捨て時代に育った今の若い人は“継ぎ当て”という言葉を知っているでしょうか。古い着物に新しい布きれで継ぎ当てをすることは適切ではありません。防縮加工技術がなかった時代の布地は、一度洗濯すると縮んだものです。ですから、古着には古布を当てなければなりません。実に経験の知恵です。

山羊の皮袋は、ぶどう酒を入れるのに適当な器ですが、新しいぶどう酒は盛んに発酵するので、弾力を失った古い皮袋は、張り裂けそうになります。

旧約聖書のヨブ記は、自分の心の中に鬱積している爆発寸前の感情を「今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている」(ヨブ32:19)と描写しています。新しいぶどう酒を、弾力を失った古い皮袋に入れることは論外です。袋が張り裂けて皮袋もぶどう酒も失うことになります「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません」

II. 新しいぶどう酒は新しい皮袋に

このように、日常生活の智恵から学ぶ霊的な教訓はたくさんあります。しかし“信仰と生活”は別だと、あっさり割り切ってしまう人もいます。私たちは誰でも、多少そのような傾向を持っていますが“信仰”と“生活”の間に、と(戸)を立てて、両者を遮断するのは要注意です。聖と俗とを区別すると気楽ですが、霊性が訓練されません。締め切った部屋が健康的でないのと似ています。私たちの生活の全領域で、聖霊の風が思いのままに吹き抜けて下さることが大切です。

古い皮袋は、新しい皮袋よりも使いやすいことは確かです。なんと言っても使い慣れていますから。新しい靴よりも、履き古した古靴の方が歩きやすいのと同じです。

初めてヨーロッパ旅行した時のことですが、少しでも歩きやすいようにと古い靴を履いて行きました。これには少年の日の思い出と教訓が重なっていました。ある時、友人達と三日間山歩きをしたのですが、靴で悩まされました。出発前日になって、やっと新しい靴を買いました。秩父の三峰口から歩き始めると、間もなく靴がきつすぎる事に気づきました。脱いでみると、左右の大きさが違っていました。それ以上履き続けることができません。買い換えることもできず、茶店で草鞋を二足買い、三日間山歩きをした経験があります。

以来“バカの一つ覚え”で、歩きやすい履物に拘ってきました。そんなわけで、3週間ぐらいは十分保つと判断して、はき慣れた古靴で出かけたのですが、私が考えていたよりも傷んでいたようです。ウィーンの町で靴の底が抜けてしまいました。よく考えた結果の失敗ですから情けない思いをしました。ぶどう酒や梅酒ならいざ知らず“古い物は良い”と、頑固に主張するのは愚かなことです。

イエス様は、年代物のぶどう酒を愛好する人々が、何事につけても口癖のように“古い物が良い”と言うのをご存じでした。それで敢えて「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません」と言われました。

イエス様を取り巻くユダヤ教社会では、事ある度に“私たちは、アブラハム以来このように信じてきた・・・私たちは、モーセ以来このように行ってきた」と、宗教的な伝統を振りかざし、批判を許さず改革を拒絶してきました。しかし、イスラエルは、アブラハムと寸分違わない信仰を持ち続けていたわけではありません。モーセのように律法の精神を豊かに理解していたわけでもありません。

彼らの伝統的文化は、誰にも批判を許さない形で保護されながら、少しずつ歪められて、似て非なるものへと変質してきました。そのような中へ、イエス様は来られて「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません」と宣言されたのです。イエス・キリストがもたらす福音、生き生きとした神の恵み、その愛の広さ深さ長さ高さが大波のように迫り、彼らを慌てふためかせたようです。

不幸なことですが、自分たちの手法を最善だと確信して来た人々には、変化を求める声は受け入れがたいものです。6章の安息日の対応などもその一例です。現代日本でも変革の必要は認めつつも、具体化にはなかなか着手できずにいます。既得権から離れられず、過去を否定されることを恐れるからです。

イエス様と弟子たちは、ユダヤ教からキリスト教を脱皮させました。西欧では1500年も連綿と続いてきたキリスト教に宗教改革が必要でした。以来、キリスト教会では、改革の意義を正しく理解して来ました。すなわち“改革された教会は、御言葉によって絶えず改革される”必要があることを認識してきました。

この世は、改革を重ねて全く別のものを生み出していきます。初めのものが不完全なのですから、当然の帰結です。

キリスト教の改革は、常に原点に返るものです(それは、方法・手段のことではなく、原初の目指した意義に学ぶことです)

それを可能にするのは、イエス・キリストと聖書への信頼です。聖書に神の御心が啓示されているので、時代の思潮に揺さぶられながらも、真に歩むべき道が見出されます。私たちの福音宣教も、その生命に相応しい新しい皮袋が必要です。