ルカの福音書説教

小林和夫師
第35回

8章-3:わたしの母、兄弟

ルカ福音書8章19〜21節

昔から“血は水よりも濃い”と言います。親子・兄弟という血肉の関係には、理性を越えたものがあるようです。悲しいことに、親が子を、或いは子が親を殺害する事件を耳にします。それでも、私たちの周囲には“親子でなければ、或いは兄弟でなければそこまではできない”という、感動的なできごとも珍しくありません。

聖書は、人間関係の原点が夫婦にあると教えています。夫婦は他人ですが、この夫婦から水よりも濃い親子や兄弟の関係が生れます。これは不可逆な関係です。友だちなら選ぶことも別れることもできますが、親子・兄弟の関係は、お互いに相手を選ぶことができません。この関係は与えられるものであり、解消することができません。

人は、物心がつくと直ぐに憎まれ口をきき始める生意気なものですが、自分自身の存在についてはまったく受動的です。私たちは、掛け替えのない生命を生きているのですが、その始まりは、意思を持たず努力もしないで与えられたものです。

時には“なんで俺なんか生んだんだ”と、不貞腐れた声を上げる者がいます。そんな低次元の問いなら、親にも言い分があります“お前のようなのを生む心算はなかった”と言ってください。そう言って大笑いできる親子なら心配いりませんが、時には、火に油を注ぐことになるかもしれません。もっとこじれれば、親子の断絶・家庭の崩壊です。

“血は水よりも濃い”と、言い慣わしてきた先人たちには知恵がありました。誰も選ぶことのできない関係を“神からの授かりもの”と、受け止めました。難しい問題が生じても、神様が念頭にあると落ち着きどころが得られます。神を見失うと、他人との関係はもとより、親子兄弟の関係も損なわれます。信仰の父アブラハムは、永遠の契約に先だって、先ず神の前に歩む(生きる)ことを自覚させられました(創世記17:1)

本日の聖句に導かれて「わたしの母、兄弟」という関係について考えてみたいと思います。

I. イエスを訪れる母と兄弟たち

今朝の聖句を読む度に思いだすことがあります。私がまだ神学生のころでした。2年先輩の駆け出し牧師から聞いた話です。神学校を卒業した彼が、琵琶湖の畔にある小さな教会の牧師に赴任して間もない頃のことでした。ある朝早く、玄関のドアを激しくノックする音に起こされ、パジャマ姿で飛び出したそうです。すると驚いたことに、彼の母親が玄関に立っていました。和歌山から夜行列車を乗り継いで訪ねてきたのだそうです。

彼女は前日、牧師になって一人暮らしをしている息子のことを考えていたら、居ても立ってもおれなくなり、その夜の列車に乗ってきたそうです。この類の話にはウンザリされる方もあるでしょう“子離れのできない母親にもこまったものだ”と呆れて、笑い話の種にする他ありません。これが、普通の反応でしょう。

しかし、ここにも事情はありました。私の友人は、両親が結婚して13年目に生まれた一人息子です。寛大な目で見れば、母親の面目躍如という一面がありませんか。彼も迷惑そうに話していましたが、心の中では、まんざらでもなかった様です。既に母を亡くしていた私には、心のどこかで羨ましく思えた話でもありました。

さて、この日、イエス様の母マリヤと兄弟たちは、なぜイエス様の所へ来たのでしょう。ルカは何の説明も加えていませんが、推測することはできます。マルコ福音書の平行記事には、こう記されています「大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た『気が狂ったのだ』と言う人たちがいたからである」(マルコ3:20-21)これは状況の説明です。

イエス様の活動は尋常ではありません。過労死が心配される程過密なスケジュールでした。ある人々の目には、ワーク・アフォリック(仕事中毒)と見えたようです。

周囲の傍観者たちは「気が狂ったのだ」と嘲りました。これを伝え聞いた身内の者たちが心配して「イエスを連れ戻しに出て来た」ようです。

イエス様の名声が高まるにつれ、侮ったり妬んだりする人々の声も大きくなり、世論は二分されました。ですから、イエス様を気遣う身内の者たちが動き始めたのは当然の成り行きでした。しかし「群衆のためにそばへ近寄れなかった」ようです。

以前にも、似たような場面がありました。中風を患う男をイエス様に引き合わせようと、友人たちがその男を運び込んだ時のことです。彼らは友情厚く決断的な人々でした。入口から入れないと知ると「屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろし」(5:19)ました。

どんなに混雑している時でも、良く気のつく人がいるものです。ある人がイエス様に「あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています」と、知らせました。大声を上げたのでしょうか。そっと耳打ちしたのでしょうか。

II. 母、兄弟の特権

「あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています」とは、どんな意味を持っているのでしょう。ここでは、病気を治して欲しい人、ひとりでは負いきれない重荷や悩みを背負いこんで相談にきた人など、大勢の人々が込み合っています。さながら病院の待合室のような混雑ぶり、みな順番待ちです。

そんな中で、イエス様に身内の来訪を知らせた人がいました“気配りができる人”と、見るむきもありますが“公の場に私的な事情を持ち込んだ”と言われそうな場面です。とにかく、その人は“お母さんと兄弟たちは別だ”と考えたようです。

最近、人々は公平や順番に厳しい目を向けます。それでも「お母さん」に関わることなら優先権を与えてくれることもあります。私たちが自分の義務を果たしている時でも「お母さん」に緊急の事態が生じれば、義務を置いて飛んでいくことを誰も咎めません。母、兄弟という言葉が代表する骨肉の関係には、特別な配慮を認めるのが習わしです。

聖書は「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:12)と教えます。イエス様も血肉の関係を粗末にしたことはありません。主が十字架に掛られた時、最後に心をかけたのは母マリヤの事でした。イエス様は母マリヤを愛弟子ヨハネに託し「そこに、あなたの母がいます(イデ・ヘー・メーテール・スウ)」(ヨハネ19:27)直訳すると「見よ、汝の母」

これは、労苦して報われることの少ない人々に、癒しと慰めと希望を与えるものです。私たちにも、老いた母にどのように報いるかを考えさせてくれます。

私たちの日常には、本来は発展しなければならないものを封じ込める傾向があります。例えば、夫婦関係は「ふさわしい助け」です。これは、あらゆる人間関係の根幹をなすものです。創造者なる神の御心は、この「ふさわしい助け」という関係概念が、親子・兄弟、やがて隣人へと広がることを望んでいます。このように理解する時、初めて「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)という、聖書の言葉が所を得ます。けれども、そのような発展的視野を持たない人の生き方は内向きになりがちです。その結果、外(或いは隣人)に対して、いつしか無関心になりかねません。

別の観点から考えてみます。わずか数十年前には、マイ・ホームという言葉には「埴生の宿」(ホーム・スウィート・ホーム)に重なる、哀愁と憧れの温もりを感じました。

“日本の家屋がうさぎ小屋”のように狭くとも、充足するものがありました。しかし、一世代も経過しないうちに、マイホーム主義などと言う言葉がのさばって“他人の事など知ったことではない”という、冷たいニュアンスが感じられるようになりました。同じように“縁故関係”という言葉も、それと同じ道を辿ってきたのではないでしょうか。

イエス様が最初の奇跡を結婚の披露宴で行われた時のことです。あの時、マリヤはぶどう酒が欠乏している事にいち早く気づきました。マリヤはイエス様の所へ来て「ぶどう酒がありません」と、窮状を訴えました。すると、イエス様は「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう・・・わたしの時は、まだ来ていません」(ヨハネ2:4)と応えました。私たちの耳には、とても冷ややかに聞こえる返答です。

「わたしと何の関係があるか」とは、聞き捨てなりません。乳を含ませオムツを替えた“母と子”の関係は誰の目にも明らかです。もしかすると、マリヤには、無意識ながらも、その関係に依存した気安さがあったかもしれません。

イエス様はそれを正されたのでしょう「母」だからという縁故関係で動かれるのではなく、父なる神の定められた時に従って行動されることを主張されたと理解しています。

III. わたしの母、兄弟

この時も、周囲の人たちが「あなたのお母さんと兄弟たち」と、一目おいた時、イエス様は身内という縁故関係を牽制して、彼らに向かい「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです」と言われました。

この言葉の真意が理解できずに誤解する人々がいます。そして彼らは“キリスト教は親兄弟を粗末にする”と言った類の批判を連発します。

イエス様は「母、兄弟」という、血肉の関係を粗末にしたのではありません。むしろ、その言葉が持つ愛や喜びや慰めを、隣人たちにまで広げたのです。人々が母という聖域を作りだし、その中に豊かさを封じ込めているとき、主はその枠を取り払って、だれでも恩恵に浴することができるように間口を開かれました。

ある時、イエス様に感動したひとりの女性が「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」 (ルカ11:27)と、感嘆の声をあげたことがありました。マリヤに対する羨望の声でもありました。そのときイエス様は、彼女に即座に応えました「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」と。

この世では、息子が偉くなると母親は賞賛の渦中に巻き込まれて、ある種の面目を施します。しかし、世間が言うような意味では、マリヤは決して幸せではありませんでした。老いた預言者シメオンは、エルサレム神殿で初めてマリヤに会った時、苦難に満ちたマリヤの生涯を洞察し「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」(ルカ2:35)と預言しました。

今日でも、イエス様を生んだ「主の母」として、マリヤを賞賛するむきがあります。しかし、軽々しくマリヤを羨んではなりません。マリヤの喜びや望みは「私は主のはしためです・・・お言葉どおりこの身になりますように」(1:38)と言ったあの日から、唯ひたすら神の言葉に根ざすものでした。マリヤこそ、イエス様の言われた「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです」という基準に適う人です。

今も主イエスは、アフリカに生涯をささげ「人間はみな兄弟」と世界に発信してきたシュバイツァーやインドに身をささげたマザー・テレサのように、隔てを持たない「母や兄弟」を求めています。私たちは、彼の人たちのように傑出してはいませんが、頂点を支える裾野の役割は果たせるのではないでしょうか。