ルカの福音書説教

小林和夫師
第6回

4章-1:荒れ野の試練

ルカ福音書4章1〜13節

私が神学生だった頃、盛んに使われた言葉の一つに“激動の時代”というのがありました。神学生の祈り会でも“激動の時代をいかに生きるか”と、テーマを掲げたものです。

時代は60年安保闘争が頂点に達し、東大の女子学生・樺美知子さんがデモの最中に殺され、アメリカでは建国以来のプロテスタント支配が崩れ、カトリック教徒のケネディーが大統領になりました。それは、黒人のオバマ氏が大統領に当選したよりも衝撃的な事でした。東西冷戦の危機も頂点に達していました。

あれから50余年、科学技術の著しい進歩があり、今日では、何事でも変化するのが当たり前だと考えられています。変化が見えなければ、人々は飽き飽きしてしまいます。確かに、変化には刺激があります。ある種のリズムが、生活に緊張を持たせてくれます。しかし、副作用もあります。弊害もたくさん生み出されてきました。

案じますのは、人間の心に飽きっぽさを加速させた事です。何を手に入れても、すぐに古臭く感じ、新しい物が欲しくなります。それが進歩の原動力だと言う人もいます。

かつて私達は“長持ちするのが良いもの”だと認識していましたが、日常的には、絶えず変化を求め、新しいものに心を奪われています。その結果、満足感が弱くなり、欲求不満が募る時代を作り出してきました。そして、本来、変えてはならないものまで、変わるのが当然であるかのように扱ってはいないでしょうか。

もちろん、このような議論も一面的です。今日、一方では目まぐるしい変化の中にあると考えられていますが、他方では“千年一日”のような領域があります。ですから、オバマは“チエンジ”を標榜して大統領選挙に勝利しました。日本の民主党もそれにあやかったようです。しかし、本家も長続きしません。民衆は次の“チエンジ”を求めています。日本のチエンジ政府も、国民を失望させている点では全く同じです。

古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスは“万物は流転する”と洞察しました。さすが慧眼でした。もし、彼が21世紀を訪れたらどんな感想をもらすのでしょう。

この世の直中にある教会も、それぞれの時代の影響を受けて、いかに時代に対応していくか腐心してきました。しかし、時代の流れが変化しても、神が造られた人間の価値や本質が変わるわけではありません。この変わらない罪深い人間を愛し、赦し、救って下さるのはイエス・キリストの外におりません。

変化と言うなら、イエス様は2000年前に「天地は過ぎ去る」と言われました。今頃“激動”だとか“不確実性”と言ってみても、新しい見識とは言えません。時代の潮流に乗る者は華やかですが、やがて流されて行きます。私達は変化の大波を受けつつも、千古不動の岩のように永遠に留まるものに目を向けなければなりません「草は枯れ、花は散りますが・・・私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)からです。

教会は、神の言葉に錨を下ろしています。どうぞ、時代の変化を恐れず、神に信頼して信仰の希望を奮い立たせ、永遠に変わらないキリストを知ることに努めてください。イエス様の物語は、新約聖書を二・三度読めばわかります。説教も誰が語っても、そんなに新しいことが語れる訳ではありません。

しかし、イエス様を仰ぎ、その一挙手一投足に目を留め、語られた一語一語が自分にどのような意味を持つのか考えるなら、興味は尽きることがありません。

パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(ピリピ3:8)と告白し「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:39)と、神を賛美しています。

主イエスに近づくと心が高揚します。キリストを知る喜びが心に満ちあふれると周囲の変化に動揺しません。心に平安を持つことが出来ます。

I. 荒野に導かれるイエス様

さて、バプテスマを受けたイエス様の頭上に、聖霊が鳩のような形をして下りました。そして、天からの声は「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と宣言しました。これは、人の子となられたイエス様の戴冠式、或いは出陣式です。

イエス様の公生涯の最初の一歩は、御霊に導かれて荒野に向かうことでした。こともあろうに、そこで悪魔に試みられるためです(マタイ4:1)3章末から4章への状況の変化は、光から闇への追放のようです。試みられるとは、晴天の霹靂です。しかし、イエス様は、ただ単にサタンの支配する荒野に来たのではありません。今こそ「荒れ野に叫ぶ声」に代わり、救い主として荒れ野に来られたのです。

ヘブル書は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです・・・キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」(ヘブル4:16-5:8)と証言します。イエス様は救い主になる前に、人間の苦しみや悲しみを具に味わいました。私たち罪人の痛みを知る救い主となるためです。

悪魔は、イエス様にいどみかかり、挫折させようとしますが、恐れることはありません。全体を支配しておられるのは神の御霊、御霊が導かれるのです。

私たちが困難や試練に直面する時“なぜ”と疑い迷うことがあります。悪魔は、イエス様にも挑戦しました。ですから、こう考えて下さい“神様は、私がこの位の困難には打ち負かされないと認めて下さった。試練を通して訓練して下さるのだ”と。

パウロも「あなたがたのあった試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(コリント10:13)と、励ましています。

試みとは“心をみる”と言われます。確かに、試みに会っていろいろな事が明らかになります。試練に直面して、これまで気づかなかった自分の実体に触れることがよくあります。不信仰な自分、愚痴っぽい自分、頼りにならない自分・・・これまで一体何を頼りに生きてきたのか、自分にとって何が大切なのか、自分の心を知ることができます。それは多少の痛みを伴いますが、改めて前進する転機となることは請け合いです。

II. 試みられるイエス様

イスラエルをエジプトの奴隷の境遇から解放したモーセは、シナイ山で40日間断食したと言われます。イエス様も荒野で40日間断食して祈りに明け暮れ、空腹を覚えました。この状況では、食物は生死を決する程の意味があります。肉体的には、イエス様も限界状況に達していました。サタンは間髪を入れず、そこに割り込んできて誘います。

1.悪魔は、まず肉体の必要に挑戦します。

このような状況下で、人が真先にするのは食べることです“聖書もいいが、聖書を読んでも腹は一杯にならない”という声が上がります。悪魔は、この絶好の機会をとらえて唆します。“何を躊躇っている。今こそパンを求めたらどうか”と。悪魔はここで、図らずも「何が人を生かすのか」という問題を持ち出しました。

そして言います“信仰も良いが、衣食住が満たされなければ無意味ではないか”と、同情者のようです。これは“健康が第一、体を鍛えなければ”或いは“何をおいても教育が最重要だ”という言葉と置き換えることが出来ます。このようにもっともらしい言葉はいくらでもあります。そして、人々は生活の中でそのような言葉を繰り返しながら、神の言葉に聞くことが恒常的に後回しになります。

イエス様は、この危機に臨み「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」(マタイ4:4)と、明解に応えました。これは、申命記8章3節の引用です。イエス様が試みられた時、直ちに旧約聖書を引用して応えたことは、私たちにも聖書の尊厳を教えてくれます。

私たちが人生の岐路に立つ時、私たちは、自由な主体的決断を下すことが許されています。その時、判断力・決定権を神の言葉に置く人は幸いです。そこでは、神の言葉にどれ程精通しており信頼しているかが問われます。預言者たちのように、神の言葉を蓄えてください。

2.悪魔は次に、この世の権力と栄光とを提示しました。

彼は「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されている・・・もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」と、挑戦してきました。悪魔は実に気前がよいです。条件は唯一つ「私を拝むなら」

悪魔を拝むという事は、悪魔に屈服し、心を売り渡すことです。悪魔は“条件はただ一つ”と言います。しかし、権力と栄光に取りつかれた男たちの世界支配の歴史を振り返ってみてください。ヒットラーとナチスの末路。日本の軍国主義を例に取り上げるまでもありません。悪魔の取引は、今も横行しています。悪魔に心を売り渡した連中の支配が、この世に不幸をまき散らし、自分達をも滅ぼしてきました。

イエス様の応えは「神である主を拝み、主に仕えなさい」と鮮やかです。これも申命記6章13節の引用です。敬神、ここから正義や慈しみが生れ、周囲にあふれ流れます。神を敬い、畏れることなしに、人の心に公平や慈しみは生まれません。

母が生前のことですが、建築家として駆け出しだった兄は、注文主の客や同僚・下職、また業界の習慣に気を使いました。すると母は“誰があなたを生かしているのか、神かこの世か、旗色を鮮明にしなさい”と励ましました。兄は母が召されてから、小林工務店を“ペテロ建設”と改め、教会に仕えてきました。

3.イエス様が旧約聖書を引用すると、悪魔も詩篇(91:11-12)を引用して食い下がります。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい・・・神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる・・・あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる」と唆します。換言すれば“成功すれば良い証しになる”というわけです。

自己顕示欲の強い人なら乗せられてしまいます。キリスト教から出た異端で、火渡りをするグループがありました“心頭滅却すれば、火もまた涼し”という事なのでしょう。見せかけのかっこよさを求める時代には、有効な方法かも知れませんが、神を試みてはなりません(申命記6:16)神には、信頼することが唯一の応答です。

このように、私たちに先立ってイエス様は試みられ、如何に対応すべきかを示して下さいました。イエス様は、悪魔の巧妙な挑戦を、聖書の言葉によって退けました。皆さんが試みられるとき、意外だと怪しんではなりません。試みられる時、み言葉に支えられて私たちも勝利者となりうるのです(詩篇119:9、11-16)

今日は、成人式も行ないます。神様の前に立つ二人の娘さんが、知恵と力の限りを尽くし、神の言葉の真実に従うように、皆さんと共に祈りましょう。