ルカの福音書説教

小林和夫師
第37回

8章-5:破壊と絶望の淵から

ルカ福音書8章26〜39節

東日本巨大地震が起こって3回目の日曜日を迎えました。普通は、3週間後にはある程度の見通しがつき、復興に向かって力を結集されます。しかし、今回は余震に加えて原発の脅威があり、不安感は募るばかりです。主がみなさんに御顔を向けて、平安を下さるように祈ります。

前回、ガリラヤ湖の対岸を目指したイエス様の一行は、突然の嵐に遭遇しました。その厳しさは、漁師上がりの弟子たち、ガリラヤ湖で湯あみしたペテロやヨハネにも成すすべがありませんでした。しかし、主イエスが風と荒波とを叱ると、嵐は静まり、一行は望む港・ガリラヤ湖の東岸・ゲラサの地に無事に着くことができました。

聖書時代の地図を開きますと、ガリラヤ湖の北岸から西岸にかけては、ベッサイダ、カペナウム、コラジン、キンネレテ、マグダラ、テベリヤなど、聞き覚えのある町々が湖畔に連なっているのが分かります。東岸はと言うと、ゲラサの地名の他は何も知られていません。

イエス様が、弟子たちをゲラサの地へ伴ったのには明白な意図がありました。今や、主は人気の絶頂にありました。そのために、弟子たちも食事をする暇もない程多忙に明け暮れていました。ですからイエス様は、弟子たちに休息が必要だと考え、弟子たちが日常の喧噪から離れ、身も心もリフレッシすることを望んだのです。人里離れたゲラサの地は、その目的に適った場所です。

しかし、地球上、何処へ行っても人はいます。そして、人のいる所には、イエス様の救いを必要とする人がいるものです。ゲラサの地で真っ先に主の前に飛び出して来たのは「悪霊につかれている男」でした。

ルカは、この「悪霊につかれている男」が、イエス様に救い出された恵みを伝えています。それだけではありません。そこから生じた福音宣教も語っています。主が彼に「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」(39節)と勧めると、彼はそれに応え「行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広め」ました。彼は、人生に新たな意義を見出しました。

I. 悪霊につかれていた男

4章でも「汚れた悪霊につかれた人」が登場しました。古代社会では、医師の手に負えない病気は悪霊の仕業と考えられていました(今日でも皆無ではない)福音書の記者ルカは医者ですが、彼の医学的な見識をもってしても、正しい病名を診断することはできません。当時の医者が「悪霊につかれている」としか言えなかった男がここにいます。

彼は着物をつけず、裸の恥をさらし、人里に住むこともできず墓場を住処としていました。ひとたび発作を起こすと、苦悩の叫びを上げて我とわが身を掻きむしります。鎖や足かせをかけて拘束しても、彼を制することはできません。彼は、悲惨そのもの「悪霊につかれている」としか言いようがなかったのです。

聖書は、人間の創造について「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」(創世記2:7)と教えています。以来、人は「いのちの息」すなわち、神の息吹によって神の光の中を生きるものです。もし、神を拒んで退けるならば、光に背を向けて闇の中を生きることになります。

神の光の中でなければ、そこはサタンの支配する所です。パウロは、サタンを「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」(エペソ2:2)と、見抜きました。そして「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13)と賛美しています。パウロが「暗やみの圧制」と指摘したのは、この世の悪の背後で支配する邪悪なサタンを指しています。

以下に「悪霊につかれている」と、呼ばれた男にみられた顕著な傾向を見ておきます。彼の様子を伝えているマタイとマルコの福音書の記述を参照してみます。

1.彼は破壊的です。

マタイは「ひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった」(8:28)と、記しています。

マルコは「彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた」(5:5)と、記します。これらの言葉は、この男が、周囲の人々にも自分自身に対しても、極めて暴力的・破壊的であったことを証言しています。

彼が、通りすがりの人に見境なく乱暴するのは迷惑で危険です。しかし、それだけなら、人は彼を避けて別の道を通ればよいのです(この頃は、ストーカーと呼ばれる、追いかけ回すやっかいな連中がいるが・・・)

彼が、だれかれの区別なく危害を加えることは危険なことですが、彼自身の不幸はもっと根が深いのです。彼は、他人を傷つけるだけではありません「石で自分の体を傷つけて」います。これは、癒しがたい窮極の悲劇ではありませんか。周囲の人は、危険を知れば離れ去ることができますが、彼自身には逃げ場がありません。

人が他人を傷つけるのは、身勝手ではありますが、自分の権利や利益を守ろうとするからです。自己保存は、誰にとっても殆ど本能的なものです。けれども彼は、我とわが身を傷つけています。これは、制御できない、逃げ場のない、窮極の破壊行為です。

2彼は絶望的です。

周囲の人々は、これまで、彼の問題について決して無関心ではありませんでした。説得できないと知ると、いささか乱暴ではありますが、鎖や足かせで繋ぎ監視もしたようです(拘束するのは、善意の人には耐えがたいこと)それでも、彼はひとたび発作に駆られると、鎖を引きちぎり、足かせを砕きました。誰も彼を押さえることができません。

鎖や足かせは最後の手段ですが、それさえも役には立ちませんでした。彼を制御する万策が尽きた状況です。これは絶望的です。諦める他ありません。

II. イエス様の御心

イエス様が、嵐のガリラヤ湖を渡り、ゲラサの地で最初に出会ったのはこのような男でした。イエス様は、サマリヤのスカルの井戸辺で一人の女性を救い出すために、ユダヤ人が平素使わなかったサマリヤ街道を敢えて通られたことがありました(ヨハネ4:4)もしかすると、この時もイエス様は、夜昼叫び声を上げるこの男の声を耳にして、嵐をついてゲラサの地を訪れたのかも知れません。私には、そんな気がしてなりません。

パウロも小アジア(トルコ)のトロアスで、ある夜、エーゲ海の彼方のマケドニヤ人の叫びを幻に見て、直ちにその地へ赴きました(使徒6:9-10)それがヨーロッパ宣教の開幕でした。

有名な登山家が“なぜ、危険を冒して山に登のか”と、問われて“そこに山があるからだ”と、答えたそうです。私たちも主イエスに訊ねてみましょう“なぜ、ゲラサの地へ行かれたのですか”。主イエスは“そこに魂の叫びがあるから”と、お答えになることでしょう。キリスト教宣教は、魂の叫びに耳を澄ます人々によって受け継がれ、私たちにも届きました。

主イエスは、嵐の海を越えて来られ「悪霊につかれた男」を正気に戻されました。これまで人々が彼にしたことは、鎖に繋いだり足かせをかけることでしたが、それは何の役にも立ちませんでした。彼の内心の苦しみに手を差し延べてくれるものはいませんでした“あれは、救いようがない”と言って、自らを慰めたのではないでしょうか。

この後、男に取り付いていた悪霊は、豚の群れに住まいを変えたようです。すると、豚が狂乱して崖から飛び降りたというのです。その真偽は知れませんが、それからひと騒動が起こりました。

37節に「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた」

これは、この地の人々が何故「悪霊につかれた男」に対して無力だったのかを物語ります。

マルコの福音書は、このとき失われた豚の数を2000匹と記録しています(5:11)そして、彼らは、なによりも、この損失に敏感でした。

彼らは、仲間の一人が正気に戻ったことを喜ぶよりも、失われた財産の大きさに心を奪われて不安を感じました。そして、イエス様に「自分たちのところから離れていただきたい」と訴えました。彼らは、イエス様を救い主として迎えず、疫病神として立ち退きを求めたのです。

イエス様が、失われた一匹の羊を捜すたとえ話を語られたとき「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にある」(ルカ15:7)と、言われたのとは大違いです。この物語は、今日の私たちにも様々な事を考えさせてくれませんか。

彼は正気に戻ると、イエス様に随行したいと懇願しますが、イエス様の御心は「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と明白です「そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広め」ました。

III. 私たちの時代の狂気

聖書の時代から2000年。私たちは、科学技術が飛躍的に進歩した時代に生きています。日々の生活は、豊かで便利になりました。それでは、破壊的で絶望的な問題は、私たちの世界から一掃されたでしょうか。現代は、人間が自分の知恵を誇示し、臆面もなく神を否定する不遜な時代ですが、破壊は止むことがなく、絶望の叫びは消えてもいません。

東日本巨大地震は多くの人命を奪いました。大地が揺れ動き、津波の脅威を見せつけられました。災害に遭われた方々の事を思うと、言葉もありません。それに加えて、原子力発電所の脅威があります。原発は、一つ間違えたら震災の比ではありません。現場の方々が、命がけの作業に従事してくださっていることに感謝と敬意を表します。

震災は、国内はもとより世界中の人々の愛を呼び起こしました。しかし、原発が誘発したのは不安と恐怖です。震災のために各国から救援隊が駆けつけましたが、原発報道が進むと、外国の報道記者たちは帰り支度を始めました。逃げ場のない人はどうしたらよいのでしょう。

16年前の阪神淡路大震災の経験を通して学んだことですが、人間は自然災害には逞しく向かい合います“いまどきの若者”たちが、全国から手弁当で駆けつけました。あんなに大きな災害にもかかわらず、人々の間では愛や勇気や希望を分かち合うエピソードが数々生まれました。

その2か月後に、オウムの地下鉄サリン事件が起こりました。18年経て、神戸は力強く復興しましたが、オウム事件の関係者は今も癒されることがありません。人工的な災害は恐れと絶望感を大きくするだけです。

核や生物兵器の脅威にさらされ、無差別テロを恐れ、子供たちさえも仲間をいじめ殺す今日は、まさに破壊的な時代です。そして、無力を痛感させられます。私たちは、進歩の名において、自ら統御できない破壊的で絶望的な種を蒔いてきました。しかし、遅まきながら、地球環境にも目を向けるようになりました。このような気運を大切にして、市民レベルで文明の進歩をチェックできるようになることを切望しています。

破壊と絶望をもたらす最大の元凶は、紛れもなく人間の罪です.パウロは「サタンさえ光の御使いに変装する」(IIコリント11:4)と、その正体を見抜きました。人間の間でも、大きな罪ほど巧みに偽装されます。開拓時代のアメリカに、こんな笑い話があります“貧乏人は、キセルをする(乗車賃をごまかす)権力者は鉄道を盗む(鉄道の利権を私物化する)”前者は、見つかれば即座に罰金をはらわされますが、後者はしばしば見過ごされます。

人の罪は破壊的で絶望的ですが「主に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ10:11)イエス様は、十字架の死をもって罪の代償を払ってくださいました「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(IIコリント5:21)「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)